散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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映画メモ 010~012 『シェフ』『モネ・ゲーム』『アンコール』

2014-05-01 23:54:37 | 日記
4012年5月1日(木)

 映画ばっか見て、仕事してるのか!
 いえ、家族が見てるもんだから、つい横から・・・

『シェフ』 原題は "Comme un chef"
 タイトルから知れるとおりのフランス映画で、出てくる料理が美味しそうだし、ストーリーは楽しい。エスプリの切れ味がよくて、フランスものの面目躍如だ。
 途中で男二人が日本人の夫婦になりすまして、キモノ姿で「分子料理」のレストランを偵察にいく場面、これは腹を抱えて笑った。ムシュー野口は日本人かと思うぐらいサマになってるが、御丁寧にチョンマゲを結っている。マダム野口は、まあ振り袖の化け物である。フランス人は浮世絵の時代から日本への関心が強いんだが、こんな場面にちゃんと使ってくれるんだね。

『モネ・ゲーム』 原題は・・・忘れた。どうでもいい。
 キャメロン・ディアスがテキサスのじゃじゃ馬娘を演じている。15分ほど見て、もう止めようかと思ったが、それもシャクで最後まで見てしまった。イギリス人のユーモアは卓抜だが、ここでは空振っている感じだ。「それって、面白い?」と言いたくなる間抜けでわざとらしい小ネタが延々と続くうえ、下ネタ中心である。BBC制作の「モンティ・パイソン」シリーズを思い出した。
 イギリス人画商のライバルとしてここにも日本人の集団が出てきて、途中では少々不快なほどコケにされている。もっとも、アメリカ人、ドイツ人、それにイギリス人自身も容赦なくエスノロジカルに風刺されていて、これがイギリス流ではあるんだろう。
 イギリス映画の良さは別にあって、たとえば次のものである。

『アンコール』 原題 "Song for Marion"
 何となくアメリカ映画のつもりで見始めたが、英語がしっかりイギリスのそれで、それだけで何となく安心してしまった。高齢者のコーラスグループが露骨にセックスを扱った歌やヘビメタ仕立ての曲を楽しむというのは、実はイギリスではありえても、アメリカでは考えにくいことだったりする。
 これはじっくりとした佳作で、自分の周囲のこととも重なり、涙なしには見られない。癌で先立つ最期の日まで歌うことを楽しみ、夫のために歌って(True Colors ~ シンディ・ローパー)旅立っていく女性、その妻をこよなく愛している、不器用でつきあい下手の男、いずれ劣らぬ好演と思えば、それぞれバネッサ・レッドグレーヴとテレンス・スタンプだった、道理で。
 エンディングロールで名前を見て、特に前者に驚いた。「きれいなおばあちゃん」と見ほれていたが、あの女優がこんな美しい老女になっていたのか。『ジュリア』でジェーン・フォンダと競演した姿が、僕の印象には今でも強い。実生活でフランコ・ネロと連れ添っていたとは、今日まで知らなかった。何と存在感のある素敵なカップルだろう!
 妻に先立たれた後、男の心が次第にほぐれて「楽しむことを教えてほしい」と願うようになる。ただし英語の楽しむ enjoy は奥が深い。ウェストミンスター小教理問答、第1問に次のようにある。
 Question: What is the chief end of man?
 Answer: Man's chief end is to glorify God and to enjoy him forever.

 男もまた、映画の最後で歌う。
 We must all go, but lullabies go on and on. They will never die, like you and I.
 I と die はライムするのか・・・
 妻の死後、ずっとソファで寝ていた彼が、歌うことを enjoy して再びベッドで寝るようになる。妻と共に眠り、妻がそこで息をひきとったベッドである。
 これもイギリス映画だ。泣かされた。


高尾九段、小保方状況をはね返す/求む、同志!

2014-05-01 12:36:50 | 日記
2014年4月30日(水)続き

 昼休みに技術運行課のFさんと碁を一局。
 教員と違ってきっちり時間に縛られるFさんは、12:15から13:00までしか時間がないから、大抵おわらない。
 今日も終盤の山場でタイムアップ。気持ちよく打ったが、よく見れば細かそうだ。後から思い出す、悪手凡手の数数々・・・特に相手が非常識な手を打ったとき、咎め損ねて無理を通してしまうことがすごく多い。あとは死活の判断がいつでも甘い。相変わらずのトノサマ碁だ。
 あ~あ、こういう時に言うのかな、
 「僕は碁が大好きだが、碁は僕のことをあまり好きではないらしい。」

 気の利いた言い回し、フランス人から教わったのだが、フランス語固有のものかどうかは知らない。

***

 碁といえば、僕が自分の師匠と決めた高尾九段が、結城聡さんと熱戦五番勝負の末、十段位を奪回した。五局とも見応えのなる内容だった。
 これまで井山裕太(日本棋院関西総本部)が六冠、残る十段位が結城さん(関西棋院)で、七冠すべてが関西にあった。千葉出身の高尾さん(日本棋院東京本部)がようやく一つを箱根の東側に取り戻した形である。囲碁の世界は東高西低の時代が長かったが、井山という怪物の出現で様相が変わった。これからが面白いが、個人的には中部総本部にも気を吐いてほしい。

 ところで囲碁の対局場は序列優位の棋士(番碁ならタイトルホルダー)の在地を挑戦者が訪れることが多く、今回も5局のうち3局は関西、1局が中立地帯の長野で、東京で打たれたのは最終局だけだった。
 対局は個室で静粛に行われるものの、一歩出れば検討室を中心に関西勢が集まって「結城頑張れ」オーラを出しているから、並の精神力では気圧されてしまう。それをもはね返した高尾さんはさすがだが、何局めかの前夜祭のスピーチでその状況を「小保方さんみたい」と評して笑いをとったそうだ。

 パーティーのスピーチに目くじらを立てるのも野暮だけれど、これは少々いただけない。自分も相手も貶める意味を含んでしまう。こちらは正々堂々の勝負事、単に環境設定の問題である。あちらはモラルに関する問題で指弾を浴びており、メディアはじめ衆目の側の「やりすぎ」はあるとしても、四面楚歌の状況そのものは自業自得以外の何ものでもないのだから。

 「笹井氏のスピーチを聞くまでは」と書いたのが、この件について最後だったが、その後は何も言う気がしなくなった。残念などという言葉では尽くせない。「若い人にきちんとモラル教育をしなければ」という論を何度か聞くけれど、独創性を求められる原著論文でコピペが許されるかどうか、教わらなくともふつうの精神構造なら分かることだ。それが今度は、調査委員側で発覚したというんだから・・・
 もう何も言わない、言いたくない。 

***

 14時前、制作部のKプロデューサーが来てくれて、TV教材収録についての打ち合わせをする。僕はTVがイヤでイヤで仕方がない。おまけに受講者のほうはTVならではのロケだのインタビューだのを期待するから、出来がつまらなければ総攻撃を浴びて小保方状況になるだろう・・・もとい、この譬えは「不適切」と言ったばかりでしたね。
 着手前からウンザリのていたらくだが、K氏の助言やらアイデアやらを聞く間に、少し元気が出てきた。
 何とかなる、かもしれない。

 英語のジョークに、「物事をするのに三つの方法がある」というのがある。
 一つ、自分でやる。
 二つ、人に頼んでやってもらう。
 三つ、子どもに「これはやっちゃダメだよ」と言っておく。

 もちろん三つ目がオチで、"Tell your children NOT to do it." と言った瞬間、アメリカ人なら例外なくワハハと笑ってくれる。こういうのをいくつか仕入れておくと、英語の会話がだいぶ楽になる。

 それはさておき、仕事の際の最後にして最強の選択肢は、「皆で一緒にやる」というものだ。
 このところパッとしないのは、もともと「一緒にやる」好きの自分が、一年中単独作業を余儀なくされているところに一因があるのだろう。

 求む、同志!

「懐かしい」ということ ~ 『イボタの虫』補遺

2014-05-01 11:30:51 | 日記
2014年4月30日(水)

 雨、放送大学へ。

 『イボタの虫』の読書メモで、本郷界隈の路面電車風景が「懐かしい」と書いたことが、電車の中でふと気になった。これは正しい用法だろうか。
 描かれているのは大正年間の風景で、経験するはおろか、想像することもほとんど不可能である。本郷に用があれば地下鉄で出かけた。今日の地下鉄と往時の路面電車を結びつけるものは、たぶん何一つない。自分が全く知らないことを、「懐かしい」ということが可能だろうか。「懐かしい」とは、よく見知った人や物に対して言うことではないのか。
 
 そうでもなかろうと思うのだ。
 路面電車とか、下駄履きに浴衣掛けとか、そういった表象や言葉がスイッチとなって起動するある一連の心象風景があり、そこに「懐かしさ」が漂う時、自分が直接見聞きしていなことについても「懐かしむ」ことが現に起きる。
 想像において懐かしむということがあり、僕らは他の人や過去の人が現実に知って具体的に体験したことを、共に懐かしむことがある程度まで許されている。それは共感的な作業である。だから・・・
 そこに共同体が生まれる。何を笑うか、何を食べるかといったことと同じく、何を懐かしむかは、人を束ねる強力な力なのだ。共通の懐かしさを提示することは、共同体の大切な役割なのである。さらに言うなら、懐かしさを共有することなしに共同体は成立しない。
 それは共感的な作業であると同時に、ひとつの決断でもある。『イボタの虫』が「懐かしい」と感じるとき、僕はそれを懐かしむことを、少しだけ大袈裟に言えば、決断している。それを懐かしむ文化と、その文化を共有する一群の人々に加わることを望み、そこに自分の情緒的な足場を求めている。

***

 若い人々が高齢者の昔話に興味を示さないような時、何とも言えない寂しさを感じるのはそのためだろうか。「私、生まれてなかったし」とは確かに事実なのだが、同時に「懐かしさを共有することを拒絶する」という断固たる意思表示を僕などは感じてしまう。戦争体験の風化もこれと同じことで、戦争体験というものが言わば「負の懐かしみ」であるとすれば、それに関心を示さないことが単なる時間の経過・世代の交代ではなく、「異文化宣言」であると思われることが悲しいのだ。

 逆に、若年者の「懐かしさ」に対して先輩の側が共感できるか、できているかということも問うてみて良い。僕がブログでしきりに息子達のことに触れるのは、必ずしも子離れが悪いせいではなくて、この種の共感の絆を重視するからである。両親の思い出に対して「懐かしさ」をもちうると同様に、息子達の「懐かしさ」に敬意を払いたいのだ。
 三男は待望の野球部生活が始まり、練習からヘトヘトになって帰宅するが、それでも関心にベランダの降り口へ座り込んで ~ 往時なら縁側の作業だっただろう
 ~ スパイクを掃除することを欠かさない。自慢のスパイクであり、大好きなスパイクである。それを愛おしそうに磨くとき、彼は未来の懐かしさの苗床を営々と仕込んでいる。それを見守ることが、僕自身の懐かしさを養うのでもあるのだ。

***

 郷愁という語は「愁い」と書くが、むしろ「愛おしみ」に近く「懐かしさ」に近い気がする。試みに大辞林を開いてみると、

 「懐かしい」は、① 昔のことが思い出されて心がひかれる、② 久しぶりに見たり会ったりして、昔のことが思い出される状態だ、③ 過去のことが思い出されて、いつまでも離れたくない、したわしい、
 以上に加えて、④ 心がひかれて手放したくない、かわいらしい、とある。

   あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり(源氏・花宴)

 「懐かしむ」は、① 昔を思い出し、その頃を慕わしく思う、に続いて、② 親しみを感じ、近くにいたいと思う、が挙げられている。
   
   春の野にすみれ摘みにと来し我ぞ 野を懐かしみ一夜寝にける(万葉 1424)

 ああそうか、「懐かしい」は動詞「懐(なつ)く」の形容詞化なのだから、これらすべて当然なのだ。懐くとは、「慣れ親しむ、親近感をいだいて近づきなじむこと」(大辞林)、ならばそこに決断があるのは論じるまでもない。
 接近の意志と決断がなければ、懐かくことは起きないし、従って懐かしさも生じない。
 僕が『イボタの虫』の世界を懐かしむのも、そういうことなのだ。

***

 すっかり忘れていた。著者情報。
 『イボタの虫』は中戸川吉二の代表作。以下はWikiのコピペである。

 中戸川吉二(なかとがわ・きちじ)は1896(明治29)年-1942(昭和17)年、、北海道釧路生まれの小説家。
 明治大学中退後、里見に師事。1923年(大正12年)雑誌「随筆」を創刊。代表作に「イボタの虫」「兄弟とピストル泥棒」がある。1921年、里見の許に来ていた吉田富枝と恋仲になり、その処遇をめぐって里見と関係が悪化、富枝と結婚するが、その経緯を小説『北村十吉』として、里見は「おせつかい」として書いた。牧野信一の才能を評価し、牧野らとともに雑誌「随筆」を発刊。また里見、吉井勇、田中純らの雑誌『人間』にも参加、第5次『新思潮』の同人でもあったが、次第に創作から手を引き、もっぱら批評家として活躍した(盛厚三『中戸川吉二ノート』、小谷野敦『里見伝』)。

 そして絵は小説と関係ない、ルネ・マグリットの『郷愁』
 ・・・橋の欄干に佇むタキシード姿みたいな天使、その足許になぜかライオンが伏せている・・・