散日拾遺

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磻溪伊尹 佐時阿衡 ~ 千字文 067

2014-05-30 08:02:30 | 日記
2014年5月30日(金)

○ 磻溪伊尹 佐時阿衡
 
 磻溪(ハンケイ)は川の名前、ここでは地名に託して、ここで釣りに興じた太公望を指すそうな。
 伊尹(イイン)は人名で、阿衡(アコウ)は伊尹に対する尊称。

 太公望や伊尹は時(の政治)を佐(たす)けて、阿衡の称号を受けた。

 太公望こと呂尚について、Wiki からパクッておく。

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呂尚は、紀元前11世紀ごろに活躍した周の軍師、後に斉の始祖。

 姓は姜、氏は呂、字は子牙もしくは牙、諱は尚とされる。軍事長官である師の職に就いていたことから、「師尚父」とも呼ばれる。謚は太公。斉太公、姜太公の名でも呼ばれる。一般には太公望(たいこうぼう)という呼び名で知られ、釣りをしていたエピソードから、日本ではしばしば釣り師の代名詞として使われる。

【生涯】
 歴史上重要な人物にも拘らず、出自と経歴は数々の伝説に包まれて実態がつかめない存在である。殷代の甲骨文に呂尚の領国である斉の名前は存在するものの、周初期の史料に呂尚に相当する人物の名前を記録したものは確認されていない。
 『史記』斉太公世家では、東方の海岸地方の出身であり、祖先は四岳の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという。元は人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する。
 周の軍師として文王の子武王を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷の王である帝辛(受王、紂)を牧野の戦いで打ち破り、軍功によって営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)を中心とする斉の地に封ぜられる。
 営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。また、斉は成王から黄河、穆稜(現在の湖北省)、無棣(現在の河北省)に至る地域の諸侯が反乱を起こした時、反乱者を討つ権限を与えられた。死後、丁公が跡を継いだ。呂尚は没時に100歳を超えていたという。
 春秋初期に強国となった斉は、自国の権威を高めるために始祖である呂尚の神格化を行った。唐の粛宗からは武成王が追贈され、文宣王孔子とともに文武廟に祭祀された。
 しばしば呂尚は部族集団の長とみなされ、周と連合して殷を滅ぼした、もしくは周軍の指揮官として殷を攻撃したと解される。呂尚が属する姜氏は周と婚姻関係があったと推定する意見もある。

【『史記』における仕官の経緯】 
 呂尚が文王に仕えた経緯については、『史記』に3つの逸話が紹介されている。しかし、いずれの逸話も信憑性に疑問がもたれている。
 文王は猟に出る前に占いをしたところ、獣ではなく人材を得ると出た。狩猟に出ると、落魄して渭水で釣りをしていた呂尚に出会った。二人は語り合い、文王は「吾が太公[注 2]が待ち望んでいた人物である」と喜んだ。そして呂尚は文王に軍師として迎えられ、太公望と号した。3つの逸話の中で一般に知られているのは、この説である。陝西省宝鶏には太公望が釣りをしたという釣魚台があり、観光地となっている。
 元々呂尚は殷に仕えていたが、帝辛の悪行に反発して殷を出奔した。諸侯の元を遍歴した後、文王に仕える。
呂尚は東方の海浜に隠棲していたが、周の臣下で旧知の仲である散宜生と閎夭の誘いで羑里で拘禁されていた文王に会おうとした。呂尚は帝辛に美女と財宝を贈ることを提案し、文王を釈放させた後、周に仕官した。

【伝承】
 呂尚は、後世の兵法と周の権謀術数を論じる人間の尊敬の対象とされた。兵法書『六韜』は呂尚の著書とされたが、『六韜』は後代の人間による著作であり、実際に書かれた時期は戦国末期以降と考えられている。また、呂尚は『三略』の著者にも仮託されている。
 後秦の王嘉が編集した『拾遺記』に収録されている有名な説話として、呂尚が斉に封ぜられた時に昔別れた妻がよりを戻そうと来たがこれを拒んだ話がある(「覆水盆に返らず」)。『漢書』に収録された朱買臣の逸話など、中国には類似するエピソードが多く存在する。
 文王は河畔で釣りをしていた太公望に出会ったとき、彼が釣りを終えるのを夕方まで待っていたという伝承がある。後世には、リーダーが優れた人材を得るためには、手間や犠牲を惜しんではならない例として引かれた。
 明代の学者・謝詔が著した「風月夢」第十回には「姜太公釣魚願者上鉤」という句があらわれる。

 
 明初に描かれた渭水での呂尚と文王の邂逅