散日拾遺

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おくのほそ道、一巻の終わり

2016-09-08 10:15:07 | 日記

2016年9月7日(水)

 「荒海や」の絶唱の後は案外すんなりと、北陸路を西行して大垣に至る。芭蕉の魂が天の河へ駆け上がり、抜け殻が地上に残ったような錯覚を覚えたりする。

 抜け殻にも芭蕉らしさが鮮やかな点のように現れるのは、たとえば木曽義仲に対する深い共感などである。なぜ義仲にと思うところに注記あり、平泉でも発揮された悲運の武将への強い共感ゆえであり、そこに信長の伊賀上野攻めで地域もろとも一族が壊滅した、近い祖先への思いが重なるという。白土三平『サスケ』だったかな、内部に通謀者があって信長の猛攻を招き、一帯があっという間に殲滅される場面があった。「強者どもが夢の跡」は至るところにある。

 木曽義仲をめぐっては、ここに斎藤実盛という武将があって、話が豊かなねじれを見せる。実盛の人生は「運命に翻弄される」という言葉がぴったりのもので、その中でブレることなく義と美を貫いた姿が平家物語の中に不朽の名を遺した。実盛は越前の出身ながら、関東の荒武者の中で頭角を現す。はじめ相模を本拠とする源義朝に従ったが、地政学的な事情から上野の源義賢についた。義朝の子・義平(鎌倉悪源太)に義賢が討たれた後、義朝に随身したものの義賢の旧恩を忘れず、遺児・駒王丸を密かに護って信濃の縁者に送り届けた。駒王丸、長じて旭将軍・木曽義仲となる。

 保元・平治の乱では義朝の忠臣として奮戦するが、乱後に関東へ逃れてからは平氏に属して重用された。そして頼朝挙兵後も平氏方に留まり、運命をともにする。加賀の篠原で義仲と対峙した時は推定72歳、ここが最期と覚悟を決め、白髪を黒く染めて出陣し、見事討たれた。首実検ですぐにはわからず、池の水で洗ったところ白髪が現れて実盛と知れた。恩人を討った義仲は人目もはばからず号泣したとある。

 むざんやな甲の下のきりぎりす (芭蕉)

 謡曲『実盛』に、「唯一目見て、涙をはらはらと流いて、あな無残やな、齊藤別当にて候ひけるぞや」とあるのを踏まえたのだそうだ。実盛が勝敗に従って主を替えているのは、鎌倉時代の主従関係のあり方としては少しも道に反しない。むしろ頼朝挙兵後に流れが大きく変わる中で、義朝とも義仲とも旧縁がありながら平氏と運命をともにした決断が、実盛一個の義と美なくしては理解しえないことと思われる。

***

 以上は小松、その後、永平寺などを経て福井ではユーモラスな再会がある。十年以上も前に江戸で遊んだ旧知の隠士・等栽を訪ねてみれば、意外にも存命健在で芭蕉の道行きにひょこひょこと着いてくる。その住処を訪ねる場面が、『源氏物語』の夕顔を踏まえているというのである。

 「市中ひそかに引入りて、あやしの小家に、夕貌(ゆうがお)・へちまのはえかかりて、鶏頭・帚木に戸ぼそをかくす。さては、此うちにこそと門をたたけば、侘しげなる女の出でて・・・(中略)・・・むかし物がたりにこそ、かかる風情は侍れと云々」

 風情は良いけれど、夕顔は連想がゾッとしない。だって彼女は六条御息所の生き霊に嫉み殺されたんだからね・・・

 「等栽は、芭蕉好みの超俗の俳人である。彼の妻も浮世ばなれした似たもの夫婦だ・・・まことに、等栽夫婦そのものが俳諧なのである。」(角川ソフィア版解説)

 等栽は敦賀までは同道しているが、さすがに美濃大垣までは来なかったのかな。「おくのほそ道」最後の句は下記。

 蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ

 これから向かう伊勢の二見浦と、二枚貝の蓋/身をかけているという。かつ、全篇冒頭の下記の句と見事に対を為す。

 行く春や鳥啼き魚の目は泪

 行き行きてまた行く春また秋、60に余る句をおさめた紀行文の全体が、ひとつの生きたまとまりなのだ。

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