散日拾遺

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自画自賛

2016-09-11 09:27:22 | 日記

2016年9月11日(日)

 「前頭前野機能のアウトソーシング」というフレーズが気に入った。うん、結構いけてる。

Ω

  フロイト先生の指人形(ある人の維納みやげ)

 


技術は太り、想像力は痩せる ~ 「怖い絵」と「プロレス放送ショック死事件」から「前頭前野機能のアウトソーシング」へ

2016-09-11 07:17:32 | 日記

2016年9月11日(日)

 日曜朝の『著者に聞きたい本のツボ』、中野京子さんが『新 怖い絵』について語った。このシリーズは僕も楽しく読んでいる。法学部時代に他学部聴講枠を使って「近代美術史」を受講し、そのレポートとして好きな絵の解題を課せられたことなど思い出す。ルーベンスの『セナケリブの敗北』について今から考えるとまるで見当外れの解説を書いたが、他学部から来て毎週熱心に受講している姿を嘉してくださったのであろう、慈悲の「優」をいただいた。本籍の法学部のほうは惨憺たる成績だったから、この「優」も貴重である。それより何より、せっかく楽しい時間を与えてくださった教官の御尊名を珍しく思い出せないのが悔しい。

  『セナケリブの敗北』 ルーベンス

(「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で18万5千人を撃った。」列王記・下 19:35)

 いきなり話が逸れたが、中野さんは「動画のない時代、絵画というものは見る者にとって動いて見えたに違いない」と言いきるのである。なまじ動画というものがあると、静止画に動きを与える(=amimate する、そのラテン語原義は「命を与える」だ)ことをしなくなる。精神の怠惰を責めても仕方ないことで、たぶん脳機能の経済原則としてそうなるのである。中野さんはさしあたり現代文明批判に向かう訳ではなく、あくまで動画以前の絵画を見るときの作法について述べておられるのだが、聞いている方は大いに考える必要のあることだ。

  『新 怖い絵』 中野京子

 僕はと言えば、つい最近よく似た話を聞いたことを思い出した。水曜日に文京学習センターの所長先生と少々こみいった相談をしたのだが、ついでの雑談が実に楽しく展開して時間を忘れそうになった。岡野達雄先生は工学畑の出身で、イタズラ気のある理系の先生は話し相手として最高という実例のような方である。最近の技術の驚くべき進歩と、そのげんなりするような効果について語る中で、こんなふうにおっしゃったのだ。

 「TVが登場した当初は画面は小さいし白黒でしたから、何が映ってるかはっきりしないようなしろものでした。それでも十分楽しめたのは、人間の方が脳の中で着色処理しディテイルを補っていたからです。プロレス放送を見てショック死した人がいたというのは、まさしくそのような想像力の結果起きたことで、今では実際に与えられる画像が飛躍的に充実した分、脳の補完作用は後退しているとみるべきでしょう。」

 朱書部分は中野さんのコメントとまったく同じ趣旨を主張している。プロレス放送でショック死というのは、僕の子どもの頃に近い過去の逸話として語られていた。今確認すれば、ちゃんとその仔細が出てくる。記憶の通り「噛みつきブラッシー」の試合、時は1962(昭和37)年4月27日のことである。

 「この日のメーンは力道山、豊登、グレート東郷組対ルー・テーズ、フレッド・ブラッシー、マイク・シャープ組の6人タッグマッチ。試合は“銀髪鬼”ブラッシーが東郷の額へ執しつ拗ようなまでの噛みつき攻撃、生中継のテレビで放送された流血シーンはあまりにもショッキングなものとなった。

 翌日の朝日新聞夕刊は、京都府の76歳の女性と愛知県の63歳の男性が、27日夜のプロレス中継を見ている最中に気分が悪くなり、医師が駆け付けたが、心臓発作と脳出血でそれぞれ死亡したと報道。63歳の男性を診察した医師は、「死因は脳出血だが、患者はもともと血圧が高く、あまりにも刺激の強い場面にショックを受けたことが原因のようだ」と語っている。

 事故が明るみに出たことで、このほかの試合中継でも数人の高齢者がショック死していたことがあらたに判明。青少年への悪影響を懸念する声も上がってきている。これを受けて30日、大阪府警は5月11日の大阪大会のテレビ中継取りやめ、中継するテレビ局に18歳未満の入場禁止などを申し入れた。しかし、その後の双方の話し合いにより、残虐な場面は大写しにはしないなど、テレビ局が自粛する旨で合意し、問題はこれ以上拡大することはなかった。」

  (http://www.ozorabunko.jp/books/historypocket/read/p07.php)

 岡野所長は、こうして亡くなった人々には飛び散る鮮血が小さな白黒のブラウン管の中に、はっきり見えていたはずだというのである。おっしゃるとおりに違いない。そのように亡くなる人があった事実は、当時の人々の想像機能の豊かさを逆説的に証明している。

  (http://www.showapuroresu.com/hansoku/brasse.htm)

***

 中野さんや岡野所長と同様のことは僕も繰り返し言ってきた ~ 「技術が進歩するほど、人間は愚かになる」と。それ自体は誰でも気づいていることで、要はだからどうするという話なのだ。未だにケータイをもたない義弟に敬意を表しつつ、今では警邏の警察官も市民がケータイをもっていることを前提に勤務することを数年前に知って以来、もっぱらその意味でケータイを手放すことができない。せめて五十歩で留まる抵抗はしているものの、百歩・千歩を駈けていく同胞を止める力はもたないのである。

 その間にも事態はどんどん進む。恐ろしいことの一つは、ここでもおそらく人間の二極分化が進むことだ。どれほど技術が進んでも、これに躍らされずに使いこなすことのできる賢人達が少数はある。前頭前野の優位性を保ちうる祝福された人々である。しかし特に社会的な努力を行わずに技術の展開するに任せたら、大多数の人間は前頭前野機能をいわば外在化させ(アウトソーシング!)、生身の脳が痩せるに任せるだろう。あるところからは、自分では止められないプロセスである。二極分化は「豊かさの中の貧困」とりわけ「こどもの貧困」をますます深刻にするだろう。

 完全とは言えないまでも、これを止める社会装置が機能している国や地域は、きっと存在するはずである。さしあたり調べの裏づけがないのだが、一方でフィンランド、他方でブータンを挙げるのは、たぶん大きく外れていないはずだ。両者は、いわゆる先進地域といわゆる発展途上地域の代表例になっている。テクノロジー水準にかかわらず抑止が可能であるとすれば、少しは元気も出るというものだ。

 なお、「噛みつき魔」ことフレッド・ブラッシー(1918-2003)が実は大の親日家だったことを、今朝初めて知った。二度離婚した後に出会ったミヤコ夫人と、人生の終わりに至るまで35年間を添い遂げている。

  (https://ja.wikipedia.org/wiki/フレッド・ブラッシー)

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