散日拾遺

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祭りの記憶

2016-09-27 07:13:30 | 日記

2016年9月24日(土)・・・戻りまして

  http://angelcymeeke.web.fc2.com/kosiore/

 誰かが綺麗に撮っている。田畑の具合がよくわからないが、秋の好日だろうか。

 正面に見えるのは、左、腰折山(こしおれやま 標高214m)、右、恵良山(えりょうさん 標高302m)、松山から北つまり今治方向へ向かう時の景色で、写真の外の左手(西)に瀬戸内海と鹿島、右手(東)に高縄山系が広がる。高縄山は標高986m、四国という島の戌亥(いぬい)の方角に突き出た半島のヘソにあたり、海の向かいの国東半島ほど真ん丸ではないが、似たようなサイズで高縄半島と名がついている。

 この画面から右に大回りしてわが家に向かうところで、母が「あら?」と景色に目を留めた。「恵良山のてっぺんに、何かできたのかな」、言われてみれば白っぽく光るもの、作業用の小屋がけでもあるのだろうか、そこから母の記憶が藤蔓を手繰るようにつるつると語られ始めた。90年近い時の隔たりが、易々と飛び越えられる小奇跡である。

***

 恵良山の麓に母(あらずもがなの注:石丸から見て母の母のこと)の里があった。恵良山のお祭りは毎年9月1日、ちょうど二学期が始まる日で、その朝には母の母ができたてのあんこ餅(おはぎ)を背負えるだけ背負って、一時間の道を歩いて届けてくれた。そして「学校が終わったら皆でお祭りにおいで、きっと来るんよ」と声をかけてくれた。

 9月1日は、始業式だけで学校はすぐに終わる。家に帰ると兄姉妹らと息を切らして母の里に駆けつけた。お祭りには相撲大会がつきもので、兄は相撲が強かったから一等の御褒美に箱いっぱいの梨をもらったりし、それを食べるのが自慢でもあり美味しくもあった。

 4月15日は鹿島神社のお祭りで、こちらは北条の伯母さんが呼んでくれた。伯母さんは父の姉で、その嫁入り先が北条にあったのだ。4月の北条のお祭り、9月の恵良山のお祭り、昭和初めの田舎の子らの何よりの楽しみだった。北条の親戚も、恵良山の親戚も、皆ほんとうに優しかった。優しい人たちばかりだった。

 私らが住んでいた宮内のお祭りは4月24日と決まっていて・・・

 「そういうお祭りの日取りには、どんな意味があったのかな、何でその日に決まったんだろう?」

 「さあ・・・」

***

 集落ごとにお宮さんがあり、決まった日に祭りがあり、人々が祭りに集い、近隣の集落と相互に集いあい、そのようにして日本人は長い時間を過ごしてきた。『忘れられた日本人』(宮本常一、岩波文庫)が名作とされるのは、誰もが属し親しんできたこのような風景を活写し再現するからである。しかし元々は、あまりに当然で言語化する必要すらないものだった。

 それを日本人は捨てた。一世紀足らずの短い時間に、完全に打ち捨てた。是非善悪は問い得ないとして、そのツケが今僕らを苦しめていることは間違いない。失われた何かを違う形で取り戻すということが、できる相談なのかどうなのか。

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