2016年9月3日(土)
「ねまる」という表現について、「猫が丸くなっているような」などと思いつきを書いたが、『菅菰抄』に面白い注が記されている。
「按ずるに、ねまるといふ詞に二義あり。北国のねまるは、他国にて居ると云詞に当るべし。又関東にて、卑俗のことばに、寝はらばふ事を、打ねまると云。此句意を考えるに、翁の北国の詞を聞き給ふは、此行脚の時初なる故に、羽州のねまるを、関東のねまると同様に思ひあやまり給ふにや。」
なるほどだが、芭蕉先生、承知で使ったということはないかしらん。「疲れた」ということを、中国など西の方では「えらい」と云い、東北では「こわい」という。現代でもこんなことを言葉遊びに使えそうだ。
***
西施の句は象潟、今は濁らず「きさかた」と記載されるが、芭蕉らは「きさがた」と読んでいる。松島と対比し、西施になぞらえるほどの景勝地だったようだが、その後の大地震で地盤が隆起し、すっかり景観が変わってしまったらしい。西施のことがあったので象潟まで飛んでしまったが、大事なところをいくつも過ぎている。「ねまる」の句が作られた尾花沢ではこんなのも詠まれた。
まゆはきを俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花
何とも艶めいて良い。ベニバナは山形の県花でもあり、名前としてはよく聞いているが、さてどんな花だったかなと見れば、これはキク科なんだそうだ。菊人形やら晩菊やら、キクは一族挙げて山形と縁が深いと見える。朗らかに美しい花である。和名「末摘花」にはちょっと驚いた。源氏物語の扱いに、ベニバナとしては少々不満もあるだろうか。
http://kobe.travel.coocan.jp/photo/nishiharima/urabe_benibana/benibana_018.jpg
***
漢字の圧縮力とでもいったものを、繰り返し感じている。大和言葉の描写力といっても同じことかもしれないが、ともかく芭蕉は両者を自在に使い分けている。立石寺(りふしゃくじ、いわゆる山寺)の記載に、「佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心すみ行のみおぼゆ」とある。「佳景寂寞」を角川ソフィア版は「ひっそりと静まりかえった、すばらしい風景」と訳す。その通りだろうが、ここは直後の句の背景であってみれば簡潔圧縮が望ましい。あまりにも有名なこの句である。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
蝉はどんな蝉か? 「セミの種類をめぐって、アブラゼミか、ニイニイゼミか、論争されたことがあった。『しみ入る』にふさわしいのは、ニイニイゼミだそうである。」
角川ソフィアはさらりと書いているが、これは確か相当な激論があったのだ。それも巨匠・斎藤茂吉が絡んだもので、子息の北杜夫が確か『どくとるまんぼう昆虫記』に書いていたと思う。手許に見当たらないので引用できないが、これが何重にも面白い話である。茂吉は他ならぬ山形県人で地元の人、当然ながら崇敬おくあたわぬ芭蕉の句の考証だから間違うわけにはいかない。しかも茂吉は論戦となったらめったに譲る人ではなかったと北が書く。その茂吉が ~ 僕の記憶違いでなければ ~ ジャージャーとやかましいアブラゼミの方を推したのである。
北杜夫は相当な昆虫マニアで、旧制松本高校時代に新種を発見したりもしている。おっかない巨岩のような父・茂吉の逸話を書きながら、さぞさまざまな思いがあったことだろう。
「圧縮力」についてもうひとつ。立石寺を訪れた後、大石田の船着場で最上川下りの舟を待つ間に、地元の俳諧愛好家に請われて連句を一巻作って与えるという場面がある。その仔細を「此道にさぐりあしして、新古ふた道にふみまよふ」と表現しているのに感じ入った。これは「漢字の」ではない、芭蕉の筆の冴えなのだ。角川ソフィア版は、「新しい句風に進むべきか、古い句風を守るべきか、迷っています」と訳して ~ というより解説している。これまたごもっともであり、翻って「新古ふた道」という表現の鮮やかな切れ味を楽しむのである。
さて、最上川下りの厳しさを、芭蕉さらりと「左右山覆ひ、茂みの中に船を下す」と記したうえ、思いついたように「是に稲つみたるをや、いな船といふならし」と付け加えている。ここで菅菰抄の引用するのが次の歌である。
最上川のぼればくだる稲船のいなにはあらずこの月ばかり (『古今和歌集』東歌)
芭蕉の念頭にあった句を正確に指摘したということか。「いな」の二文字に「稲」と「否」をかけ、「上納を拒むのではないが、せめてひと月待ってほしい」の意だそうである。古今集も東歌にはこんなのがあるのだね。野の香り、生活の温もりが、俳諧の世界に重なるようである。
***
さてさて今日も不思議な偶然に出あうものだ。エムスリーという会社から毎日送られてくるメディカルクイズ、今日の設問がなんと芭蕉である。
「松尾芭蕉が東北への旅にでたのが、元禄2年(1689年)3月27日のことでした。 そして東北から北陸をめぐって元禄4年に江戸に帰りました。 その行程は約600里(約2400キロメートル)の長旅でした。 実は、芭蕉は、飯塚温泉で「持病さへおこりて、消入計(きえいるばかり)になん」(『奥の細道』)と持病に苦しんでいることを書いていますが、この持病とは、疝気(腹痛)ともう一つありました。 それは何だったでしょうか。」(日本医史学会理事 青木歳倖先生出題)
【選択肢】 ① 労咳(結核) ② 天然痘 ③ 痔疾 ④ 梅毒 ⑤ 軽い下半身麻痺
これは間違えないよ、他ではあり得ない。解説は下記。
・・・正解は「痔疾」。松尾芭蕉は、門人や知人への手紙でよく「持病下血などたびたび、秋旅、四国・西国もけしらずと、先(まづ)おもひとゞめ候。(元禄3年(1690年)4月10日付如行宛て書翰)」、「さりながら、去年遠路につかれ候間、下血など度々はしり迷惑致候而、遠境羈旅かなわず候間、東之方ちかくへそろそろとたどり申すべきかとも存候。(元禄3年7月17日付け牧童宛書翰)」など、下血よる長旅の苦労を訴えています。これは痔(切れ痔)による出血のことと考えられます。如行(じょこう)とは、近藤如行という美濃出身の芭蕉門人。牧童とは、立花牧童という加賀藩御用研師で芭蕉門人。芭蕉は、奥の細道の長旅で痔疾を悪化させ、西国への長旅はできなくなったのでした。
【参考文献】 伊藤松宇『奥の細道・その他、芭蕉翁文集』(岩波文庫、2005年)
何と残念、ぜひ四国路へお越しいただきたかったことである。
Ω