散日拾遺

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自動詞/他動詞問題 ~ 「佐渡に横たふ」から「ハルフー」まで

2016-09-06 07:49:43 | 日記

2016年9月6日(火)

 「日中首脳会談では、両国間の対話を加速することで意見が一致し・・・」

 あれ?最近のNHKは「加速する」で済むところを「加速させる」から進んで「加速化させる」などと言っていて、ひどく耳障りだったのに「加速する」に戻したのかな?

 「豪雨に見舞われた地域では、至るところで道路や線路が寸断し・・・」

 ここは「寸断され」でしょ、どう考えたって。

 自動詞/他動詞問題が耳に引っかかって、肝心のニュースがすんなり頭に入ってこない。「そんなに目くじら立てるもんじゃないよ」と自分に言い聞かせる意味をこめて、昨日の「おくのほそ道」解説から。

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 荒海や佐渡に横たふ天の河

 「「横たふ」は他動詞で、現代語「横たえる」にあたるために、この句は文法上からは破格だとされる。自動詞「横たはる」にすべきだというが、句全体の調子からすれば「横たふ」のほうが優る(・・・というか、「横たはる」ではぶちこわしだ)。散文を基準にした文法にこだわる必要はない。」

 角川ソフィアの Kindle版である(カッコ内石丸)。さすがにこの句は幼い頃から聞き覚えていたのに、今にしてなるほどと思う。むろん俳諧(=詩)というものの使命から敢えてするところの破格であって、NHKのニュース原稿の参考にはならない。散文は散文的に破格を控えて淡々と規則に従うことこそあらまほしい。それはそうと、以下の解説が執筆者もかなり昂揚しているようで目を見張らされる。

 「むしろ句の構造に注目したい。この句には、芭蕉と佐渡が島とを隔てる夜の闇の日本海、それに対応して夜空を明るく彩る天の河がある。縦と横の十文字に、芭蕉と佐渡が島、日本海と天の河がそれぞれ位置する。これに、年に一度の七夕の夜にしか逢えない牽牛・織女の哀話を投影してみると、どのような図案が浮かんでくるか。

 芭蕉は牽牛であり、織女は佐渡が島に見立てられる。芭蕉は異界ともいうべき佐渡が島に、まるで織女を恋する牽牛のように、強く魅せられているのである。佐渡が島は渡ることができないために、いっそう恋慕の情をかきたてた。

 さらに、天の河が降り注ぐ光は、佐渡が島の闇を浄化している。この句は単なる実景描写の句ではない、歴史と運命に涙する詩人の魂が生んだのだ。」

 佐渡が古来の流刑地であること、この句と同時(直前)に「文月や六日も常の夜には似ず」が詠まれている通り、この夜が七夕前夜であること、そうした大小の時間展望を踏まえてここに「歴史と運命」を読むのが、なるほど正しいのだろう。長旅の疲れがみえてくる中で(「病おこりて事を記さず」、ただしこの記述自体が芭蕉の作意によるものと『菅菰抄』は指摘するが)、この間に着想された「荒海や」の句は「『おくのほそ道』随一の絶唱」と解説者は言いきっている。そうでもあろう。

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 そういえば、詩編46:10の「הַרְפּ֣וּ (ハルフー)」について、金曜日にある人と話す機会があった。これがヘブル語文法におけるヒフィル命令形であることに彼は引っかかっている、ヒフィルはカルと違って「使役」が原義だというのである。だとすれば、単に「sinkせよ、relaxせよ」というのではなく、何かをして何とかせしめるのでなくてはならない。そこから「力を捨てよ」という新共同訳の苦肉の表現も出てきたのではないかという。なるほど。

 「従え」というのと、「汝自身をして従わしめよ」というのとは、似ていても同じではない。ヒフィルに込められた詩人の呼びかけを思い、旧約原文の深さを思う。

Ω

 


遺品のこと

2016-09-06 06:07:29 | 日記

2016年9月5日(月)

 チャスラフスカの記事から下記の部分を ~ 座右に刻むため ~ 特に書き抜いておく。「どんなに迫害を受けても、揺るぎない信念を持って生き」た女性であり、「死ぬことよりも(注: 命よりもと言うべきか)大切なものがあると直感で知っていて、それは日本の武士道にも通じるものがあった」とされることと、当然ながら深く結びついている。

 「最後に訪ねた時も、街を歩けばサインを求められる有名人だった。それでも、「恥ずべきことだから」と派手な生活はしなかった。講演やイベントの出演料を要求することもなく、国から与えられた一軒家を人に貸して、六畳ほどの部屋一つのアパートに住み、家賃収入と年金で暮らしていた。数々のメダルはベッドの下の箱の中だった。/最後の最後まで、信念を貫いた人生だった。」(金島淑華: 朝日新聞2016年9月1日朝刊38面)

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 遺品について書かれたものの中で、いちばん古い記憶はジンギスカンの伝記に出てきた耶律楚材(1190-1244)で、この人はモンゴルに滅ばされた遼の王族の末裔だが、元の宮廷である種のアドバイザーのような役割を果たした。モンゴル流の文化破壊を抑止するのに功があったとされるが、最近は疑問視する向きもあるらしい。史実性はここではどうでも良い。彼を称える文脈の中で、「死後、彼の住まいには一面の立派な琴と数千巻の書物の他、ほとんど何もなかった」とあることを思い出すのだ。(ATOK も IMEも「耶律楚材」ぐらい変換してくれ、矢立素材じゃないよ!)

 田中正造(1841-1913)のことは以前にも書いた。「財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。なお、病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。」(wikipedia)

 「新約聖書」に加え、「帝国憲法とマタイ伝の合本」(自作であろう)を携えていたことが注意を引く。さほど突飛なことではなく、僕は長男に幼児洗礼を授けてもらった時の証しの中で、「聖書の次には、日本国憲法が重要な文書と思っている」と書いた。田中正造は、ただ思っていたのではなく実践したのである。

 山室軍平(1872-1940)の遺品全体のことは知らないが、小川貞昭牧師から聞かされた話が印象に残っている。息を引き取った直後、彼の枕の下から一冊のノートが出てきて、そこには多くの人の名前と注記が書き込まれていた。これらは山室がその人々のために毎日のように祈った、祈りの対象者の覚えである。そのノートが臨終の時まで枕の下に置かれていた。

 そしてむろん、ナザレのイエスである。最後に残った彼の上衣を、ローマの兵士らがサイコロ博打のアテにした。人は生きてきたように死んでいく。死に方を見れば生き方がわかる。ならば今まだ死ぬわけにいかない。この部屋のこのザマでは、生まれてきたのが申し訳ない。

Ω