2016年9月6日(火)
「日中首脳会談では、両国間の対話を加速することで意見が一致し・・・」
あれ?最近のNHKは「加速する」で済むところを「加速させる」から進んで「加速化させる」などと言っていて、ひどく耳障りだったのに「加速する」に戻したのかな?
「豪雨に見舞われた地域では、至るところで道路や線路が寸断し・・・」
ここは「寸断され」でしょ、どう考えたって。
自動詞/他動詞問題が耳に引っかかって、肝心のニュースがすんなり頭に入ってこない。「そんなに目くじら立てるもんじゃないよ」と自分に言い聞かせる意味をこめて、昨日の「おくのほそ道」解説から。
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荒海や佐渡に横たふ天の河
「「横たふ」は他動詞で、現代語「横たえる」にあたるために、この句は文法上からは破格だとされる。自動詞「横たはる」にすべきだというが、句全体の調子からすれば「横たふ」のほうが優る(・・・というか、「横たはる」ではぶちこわしだ)。散文を基準にした文法にこだわる必要はない。」
角川ソフィアの Kindle版である(カッコ内石丸)。さすがにこの句は幼い頃から聞き覚えていたのに、今にしてなるほどと思う。むろん俳諧(=詩)というものの使命から敢えてするところの破格であって、NHKのニュース原稿の参考にはならない。散文は散文的に破格を控えて淡々と規則に従うことこそあらまほしい。それはそうと、以下の解説が執筆者もかなり昂揚しているようで目を見張らされる。
「むしろ句の構造に注目したい。この句には、芭蕉と佐渡が島とを隔てる夜の闇の日本海、それに対応して夜空を明るく彩る天の河がある。縦と横の十文字に、芭蕉と佐渡が島、日本海と天の河がそれぞれ位置する。これに、年に一度の七夕の夜にしか逢えない牽牛・織女の哀話を投影してみると、どのような図案が浮かんでくるか。
芭蕉は牽牛であり、織女は佐渡が島に見立てられる。芭蕉は異界ともいうべき佐渡が島に、まるで織女を恋する牽牛のように、強く魅せられているのである。佐渡が島は渡ることができないために、いっそう恋慕の情をかきたてた。
さらに、天の河が降り注ぐ光は、佐渡が島の闇を浄化している。この句は単なる実景描写の句ではない、歴史と運命に涙する詩人の魂が生んだのだ。」
佐渡が古来の流刑地であること、この句と同時(直前)に「文月や六日も常の夜には似ず」が詠まれている通り、この夜が七夕前夜であること、そうした大小の時間展望を踏まえてここに「歴史と運命」を読むのが、なるほど正しいのだろう。長旅の疲れがみえてくる中で(「病おこりて事を記さず」、ただしこの記述自体が芭蕉の作意によるものと『菅菰抄』は指摘するが)、この間に着想された「荒海や」の句は「『おくのほそ道』随一の絶唱」と解説者は言いきっている。そうでもあろう。
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そういえば、詩編46:10の「הַרְפּ֣וּ (ハルフー)」について、金曜日にある人と話す機会があった。これがヘブル語文法におけるヒフィル命令形であることに彼は引っかかっている、ヒフィルはカルと違って「使役」が原義だというのである。だとすれば、単に「sinkせよ、relaxせよ」というのではなく、何かをして何とかせしめるのでなくてはならない。そこから「力を捨てよ」という新共同訳の苦肉の表現も出てきたのではないかという。なるほど。
「従え」というのと、「汝自身をして従わしめよ」というのとは、似ていても同じではない。ヒフィルに込められた詩人の呼びかけを思い、旧約原文の深さを思う。
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