2016年9月19日(月)
子どもの頃から人混みが苦手で、お祭りや花火大会の楽しさは分からないではないものの、雑踏・喧噪の与える不快の方が常に負担だった。20代から40代までは好奇心や昂揚感が勝っていたのか、一時的にあまり気にならなくなっていたが、最近あらためて人混みへの嫌悪感が強い。物理的な空気の悪さや蒸し暑さに対する認容度も落ちたのに加え、コンサートに行けば演奏中に私語しているとか、混み合った講演会場では椅子を後ろから揺すられるとか、その種の不快感への耐性が確実に低下している。これが僕の加齢の形であるらしい。
出歩かなくても他人に迷惑をかけるわけではないので、近頃はすっかり居直って出不精を決め込んでいたが、三男の高校最後の文化祭、ということは息子たちの学校行事のいよいよ締めくくりということで、葛藤の末に出かけていった。結果、ひょっとすると人生の転機(この期に及んで、まだ転換の余地があるとすれば)になるかもしれないような半日を経験した。
高校生たちの演劇を二題見物。いずれも素晴らしいもので、後生は実に恐るべし仰天瞠目である。『ユタと不思議な仲間たち』、原作が三浦哲郎氏の小説であったことを初めて知った。もっと早く読んで良いはずだった。三浦氏は八戸の出身で、作品に生かされた東北訛りを東京の高校生たちがかなり良くこなしている。NHKドラマの方言などより数段上と請け合えるのは、僕自身が山形で一年を過ごしたからだ。
むろん青森と山形では東北訛りといっても相当の開きがある。それでも共通の表現はあるものと見えて、座敷童の一団に頭目が「いぐべあ!(行こうぜ)」と声をかける場面、思わず「でかした」と心中で叫んだ。「いぐべあ!」と何度呼び交わしたことだろう、実に懐かしい。いっぽう「わだ、わだ、あげろじゃ、ががい」は物語の中で繰り返される座敷童たちのシュプレヒコール、さしあたり意味不明・理解不能である。しかし言葉とは面白いもので、いったん解説され実は現代「標準語」とわずかに隔たるものでしかないと知り、要するに意味がわかったとたんに「剣で胸を刺し貫かれる」(ルカ 2:35)思いなしには聞けなくなる。
ことに驚いたのは出演者たちが一様に歌・踊り・立ち回りの見事なことで、入試に演劇実技があるわけでもない公立高校の一クラスが、よくこれをダブルキャストで提供できたものだ。照明や大道具・小道具はじめ裏方もしっかり仕事をしている。開演前に目に止まった、舞台の隅の稲穂の写真を載せておこう。
もう一つは『ダブリンの鐘つきカビ人間』、これは『ノートルダムのせむし男』のファンタスティックな翻案というのだろうか。このクラスの完成度の高さにも驚いた。とりわけ僕が見た回に主演したY君、大きな体、長い手足、あどけない顔立ち、高めの声、それらを100%生かして対象になりきり、最初から最後まで観衆を魅了した。カビ人間の純真とせつなさを伝える点に絞れば、プロの俳優にも遜色ないと思われる。
もうひとり、この物語で最大の悪役 ~ というより、僕ら自身のつくり出す衆愚と俗悪の象徴ともいえる「神父」役の演技も見事。いつも思うことだが、敵役がショボいとドラマ全体がダメになる。『ベニスの商人』の蔭の主役はシャイロックというわけで、背格好がY君によく似ていながら低い声・太い眉の対照もよろしく、ウィットのきいた弾丸トークを滑舌よくこなしつつ、「神父」君またヒールの役どころを見事に演じてのけた。
『ユタ』と違ってこちらは相当笑ったが、演劇では本質的に大事なポイントである。
まったく、若い連中は隅になど置いたものではない。問題はこの才能と資質を生かす準備が、社会の側にあるかということだ。
ここまでが good news、これだけでは済まなかったが bad news はここには書かない。bad と言ってもまた別の意味で若い者の強さ賢さを知るところがあり、終わってみれば恵まれた一日だった。ただ、自分がこの先まだ歩みを続けるつもりなら、大きく変わらなければならないことを痛感する。人生のこの期に及んで変わるなどということができるかどうか分からないし、したければ自分でするよりない。ユタが座敷童に、カビ人間がおサエに支えられたように、見えない力の助けは必ずあるとしたものだが、それを生かすも死なすも自分次第である。
道の途中で某国大使館の門に見た意匠、鷲が蛇をしっかり捕らえて実にカッコいい。本日の天啓らしいが、怒りという名の蛇をどうしたらこんなふうに制御できるだろうか。
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