散日拾遺

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ここを切れ、かしこを断て

2017-01-02 11:54:31 | 日記

2016年1月2日(月)

 勝沼さん、橋口さん、コメントありがとう。

 長島茂雄さんが、そうですか「最初の還暦」とおっしゃったのですか。二度目の還暦は生まれて121年目、これまでほとんどあり得ない話でしたけれど、再生医療などが今の勢いで進歩すると、二度の還暦を経験して三巡目に入る人も増えてくるかもしれませんね。

 ところで、年末に高校同窓のW君という友人からメールが来たことを、千字文に引っかけて御紹介しましたね。指薪の故事が「火」をもって生命の永続性の譬えとするところ、W君はDNAにその実体を見るという話です。ドーキンスの「利己的な遺伝子」説を肯定的に受け容れる立場と言っても良いかと思うのですが、私はどうしてもそこに落ち着く気になれず、また「DNAの論理はそれでよいとして、文化レベルではまた別の意味での永続性が成立しうる」といった素朴な二元論も何かズレている感じがして、30年越しのモヤモヤが続いていたりします。

 そんなことを振り返りながら、大晦日も午後8時頃になってふと思いつきました。私、「子どもを残そうとしない生き方」というのが、これまでよく分からなかったのですね。この世の短期滞在者にすぎない自分の痕跡をかすかにでも留めておきたいとか、生命の永続性に寄与することによって有限な個体を超えた大きな命の営みに参与したいとか、もっと単純に子どもがかわいいからでも、あるいはわが身かわいさの延長としてでも、何と評してどのように合理化するにせよ、子どもを残したいというのはかなり本源的で普遍的な欲動ではないかと思っていたのです。もちろん身体的・社会的な事情からそれが叶わないことはいくらでもあるし、そうした場合に違った形で欲動を昇華する営みが文化形成の貴重な要因ともなる、そのことを含めて「本源的・普遍的」なものなのだろうと。なので「別に子どもをもたなくてもいい」という気もちが、良いとか悪いとかではなく理解できなかったのです。

 それが突然腑に落ちたというのは上述のDNAがきっかけです。「個体はDNAの担体に過ぎない」と見切るなら、子孫を残したいという欲動からしてDNAによって「もたされている」ものに他ならず、これを忠実に果たそうとするのはDNAの思うツボということになりますよね。「そんなのゴメンだ」「自分はDNAの奴隷じゃない」と考えてみる時、「子孫を残したいとは思わない」という気もちが一転して「分かる」ものに変貌するようなのです。狡猾で仮借のないDNAの奸計に対する個体の造反とでも言うのかな。ドーキンス理論の示唆するところを、多くの人々が生活者として直観しているのではあるまいか。世の中の見え方が、微妙ながらはっきり変わってきそうです。

 それで思い出すのが、もう一つの年来のナゾである『徒然草』第6段で・・・

 「わが身のやんごとなからんにも、まして数ならざらんにも、子というものなくてありなん。前中書王・九条太政大臣・花園左大臣、みな族絶えんことを願ひ給へり。染殿大臣も、『子孫おはせぬぞよく侍る。末のおくれ給へるは、わろき事なり』とぞ、世継の翁の物語には言へる。聖徳太子の、御墓をかねて築かせ給ひける時も、『ここを切れ、かしこを断て、子孫あらせじと思ふなり』と侍りけるとかや。」

 この部分の引用は不正確でほとんど恣意的に歪められています。世継の翁の物語(『大鏡』)は、染殿大臣(藤原良房)について「かくいみじきさいわひ人の、子のおはしまさぬこそ口惜しけれ」と書いたのですから。徒然草6段の思想は、兼好自身の固有のものに違いありません。なぜ「子というものなくてありなん」なのか?「執着」だからでしょうかね。

 「執着を断つ」という一見仏教的なメッセージが、DNAの圧制に対する個体の反逆の先駆的な形に見えてしまう、うららかな日和のお正月でした。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

Ω