散日拾遺

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セルフエスティーム/幻庵因碩、本になる

2017-01-12 22:42:32 | 日記

2017年1月12日(木)

 家族というものが人間形成に及ぼす刻印の深さ。ある人はそれにも関わらず、援助を活用して健康を取りもどす力をもつのに、ある人はストレスが募れば募るほど、ストレスを生み出す一因でもある非適応的な認知パターンにしがみつき、援助を拒絶すらする。その違いはどこから来るのか。

 自身の健康を回復し得た人が、幼児期の記憶に縛られて家庭を営むことを断念し、自身なお苦難の途上にある人が、ほとんど反復強迫のように家族を産みだし続けること。セルフエスティームの決定的な重要性、それが稀少な資源にすらなっている現状。変わる/変わらされることは誰にとっても怖いもので、自分が変えられることを恐れない開かれた勇気は、なおさら稀少な成熟の証であること、等々。

 診察介助者がいるといないとで面接過程そのものが大きく異なり、むろん得も失もあるわけだけれど、交わされた会話の解釈や意味づけを随時話し合えるのは、介助者があることのありがたさである。

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 振り返ったり反芻したりしながら書店に入ると、新刊書フロアに平積みになった上下本のタイトルが目に飛び込んできた。『幻庵』・・・あの幻庵?ほんと?ほんとだ、あの幻庵だ。

 井上幻庵(げんなん)因碩、1798(寛政10)年-1859(安政6)年、江戸時代末期の棋士。本因坊、林、安井と並ぶ囲碁の家元、井上家の十一世。同家は代々「因碩」を名乗ったため、隠居後の号によって幻庵因碩と呼ばれる。碁盤全体を広く使った雄大な打ち回しが魅力で、週刊『碁』は少し前から幻庵の棋譜解説を連載している(らしい)。

 稀代の強豪だが、本因坊家の厚い壁に阻まれて遂に名人にはなれなかった。名人位を巡る本因坊丈和との暗闘は「天保の内訌」として囲碁史上に名高いものながら、碁の内容はともかくその経緯はどちらにとっても名誉と言えそうにない。その後、幻庵の弟子である赤星因徹が丈和に挑戦して対局中に吐血、ほどなく若くして他界することあり。丈和隠退後には、丈和の孫弟子にあたる秀和に幻庵自身が挑戦したが、秀和また史上屈指の打ち手でついに幻庵これを破れず。さらに後年、安芸小僧こと秀策相手にいわゆる「耳赤の局」で名を為さしめるなど、悔しいことの方が多い棋歴である。

 それでも古棋譜を並べる者に幻庵ファンが多いのは、上述の豪快な棋風の反面ポカで取りこぼすことの多かった人間臭さや、数々の逸話に彩られた波乱の生涯も手伝っているのだろう。幕末の風の中で単なる碁打ちに収まっていることができなかったらしく、1846(弘化3)年の江戸城火災の修復費用を幕府が諸大名に課したことを諫めて閉門に処せられたり、1853(嘉永6)年 ~ ペリー来航の年 ~ には清国渡航を企てて暴風雨で失敗したり、その帰途に金がなくなって九州地方で免状を乱発し、実力の伴わない初段を「因碩初段」と称せられる基を作ったりと、話題には事欠かない。

 中でも印象深いのは愛妾と愛弟子に駆け落ちされていること、とりわけその後の幻庵の振る舞いである。二人の隠れ家を見つけ出して乗り込んだ幻庵、当時であれば彼らを斬り捨てても許されるところ、何と元弟子に碁盤・碁石を贈ったというのである。「女などは惜しくもないが、貴様の芸が惜しい、精進せよ」と言い放ったと伝えられる。

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 こんな人物であれば歴史小説の主人公に据えるには格好の素材だが、多忙の売れっ子・百田尚樹が幻庵によく目を留めたことと、それに感心した。(古)碁好きなら知らぬ者はないが、碁に関心がなければ気づきもしない存在だもの。しばらく立ち読みに流して読んだ範囲では、碁の所作や対局心理などかなりよく描写されている。ふと比べてみたくなったのは冲方丁の『天地明察』で、こちらは幻庵より150年ほど前の安井算哲こと渋川春海(はるみ)を主人公にしている。算哲もまた同時代に本因坊道策という不世出の大天才がいたため碁では引き立て役に終始したが、関孝和を初めとする同時代人との交友を背景に天文暦学者としての功績が大きく、いわゆる貞享暦の作成に尽力して幕府の初代天文方となった。

 『天地明察』は非常に面白く書かれており、とりわけ渋川夫妻の添い遂げる様が睦まじくて読後感が良い。惜しむらくは筆者が碁にさほどの関心をもたないらしいことで、それが文面にどうしても滲みだしてしまう。百田氏の碁の素養がどれほどか知らないが、『幻庵』は少なくともそこに疑問をもたせないことに成功している。随所に棋譜が掲載されているのも碁好きには嬉しいところで、いずれ文庫に入ってからゆっくり読んでやろうと思いながら書店を出た。

 それにつけても、作品と作者の関係は一筋縄では論じられないものである。

   

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野球のことと酒のこと ~ 朝刊紙面から

2017-01-12 07:48:29 | 日記

2017年1月12日(木)

 ラヂヲ体操が始まる時にはまだ暗いが、終わるときにはあらかた明るんでいる、そんな陽の巡りである。西の方に住んでいる家族のところでは、ラヂヲ体操が終わってもまだ暗いだろう。殊に松山市北部は東側に山があり、その頂に陽が昇ってはじめて朝が来るので。

 年が明けて新聞の連載記事が改まり、「あの夏」では昭和34年準々決勝の徳島商vs魚津高を扱っている。板東英二と村椿輝雄、スコアボードに0が36個並んだ伝説の名勝負、この大会で板東は通算83個の三振を奪い、これは現在も破られていないという。今後も、まず破られないかな。仮に一大会で多めに6試合戦うとして、一試合平均14個の三振を取らないといけない。ほとんどあり得ない数字で、金属バット導入以後はそれ以前に比べ打撃側が有利にもなっている。数字も数字だが、登場する人物が軒並み戦争の惨禍をきわどく生き延びた人々であることが眩しい。板東は満州の生まれで4人きょうだいの末っ子、「いつ置いていかれるか、倒れるかわからない」引き上げの道程、神戸にたどりついたのは1947年春だったという。魚津高校の監督をつとめた宮武英男はさらに遅れて48年の秋の帰国、やはり旧満州で運送会社に勤めており、シベリア抑留の憂き目を見た。「地獄のようなところから日本に帰ってくることができ、好きな野球をやれて生き生きしていた」と夫人の追憶。30回の連載が楽しみである。

 連載小説も改まった。今朝はその11回目。

 「人が酔っていくというよりも、運ばれてくる徳利の酒がすでに酔っているようでして、その酔った酒を酔った人間が飲むのですから回りは早うございます。」

 長崎を舞台にした凄惨なやくざの抗争を描く筆致の、流麗な手弱女ぶりに目を見張る。「酒がすでに酔っている」「酔った酒を酔った人間が飲んで回りは早い」・・・言い得て妙、レトリックのようでいて実はこの上なくリアルなのだ。千利休のものとされる、こんな格言が思い出される。

 一杯は人、酒を呑む/二杯は酒、酒を呑む/三杯は酒、人を呑む

Ω