2017年1月25日(水)
先週の日曜日の話の続き。中高生にラザロの復活の話をした後、今度はM師によるマタイ福音書の講解を伺う。9章1~8節は『中風の人の癒やし』と呼ばれる場面である。「中風」の原語が ταραλυτικος つまり paralytic であることは知っていたが、何となく脳卒中後遺症と思い込んでいたのは「中風」の字面に引っ張られたからで、翻訳語の影響力というものである。(今朝のラジオで「熟議」の重要性を強調する論者の「熟議はもともとドイツの学者が言い出したことで」に首を傾げたのもこの関連だ。)実際は麻痺性疾患一般の総称だから、脳性麻痺の未成年だったかも知れないし、神経難病を患う成人だったかも知れない。ともかく手足が麻痺して体の自由が利かないから、来たくとも自力では来られなかった。
そこでその患者を床に寝かせたまま、人々がイエスのところへ連れてきたのである。「人々ね」と読み過ごしそうだが、いったいこれはどんな人々か。家族親族か、近隣の「人々」か、通りすがりかボランティアか、誰であれ病の時に癒し主のもとへ運んでくれる「人々」に巡り会うものは幸いだ。ベトザタ(ベテスダ)の池にはそういう親切に恵まれることなく、38年間待ち続けた病人がいた。イエスが何を思ってか「良くなりたいか」と問いかけた病人である(ヨハネ 5:1-9)。
万事ほどよく整形するマタイの筆法だが、素材の原型をよりよく保存すると考えられるマルコでは、「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」と書かれている。聖書の面白さをどうしてもっと味わわないのか、屋根をはがして病人をつり降ろす話なんて、驚き呆れ泣き笑いしながら読むはずのものだ。生真面目にしかつめらしくお上品に読める話か。「当時この地域の屋根は日本の瓦屋根と違って簡単に取り外せるもの」と、したり顔の注釈もあり、たぶんそうでもあるのだろうが、地上を人かき分けて進むのとはやっぱり違う。運ぶ人々はイエスしか眼中になく、ただイエスのそばに連れて行きさえすれば事は成ると信じている。その信仰をイエスは「見た」。M師によれば、「信仰以外のものを見なかった」ということでもある。
この場はその後のひねりが重要であり、不可解でもある。イエスは「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と告げる。それに対して律法学者が瀆神の疑いをもち、それを見抜いたイエスが「『罪は赦される』というのと、『起きて歩け』というのとどちらが易しいか」と反問する例の場面である。どちらが易しいの?律法学者の問より先に、病の癒しを求めてきた人間に対して「あなたの罪は赦される」とは何たる見当外れかと、近代人の常識が反応する。見当が外れていないことを知るには、幼子の素直さか熟年の叡知か、どちらかが必要なようだ。
M師はそこに立ち入る代わりに、思い出話をしてくださった。師の青年時代、年輩の信徒で病みついて教会に来られなくなった人があった。青年らが問安を思い立って訪ねていくと、高い窓からかろうじて明かりが入るほどの部屋でその人は床についている。青年達の顔を見て、「◯◯さんはどうしていますか?」と問う。消息を伝えると、しばらく黙って目を閉じている。やがて目を開け、「△△さんはどうしておられますか?」と問い、また黙って目を閉じる。ひとしきりそれが繰り返された。床から立てないその人は、ひとりひとりのために祈っていたのである。
「ひとつ励ましてさしあげよう、などと思って出かけていった私たちが、すっかり励まされ慰められて帰ってきたのです」とM師。「この方は元気な間、和服で教会にいらして正座で礼拝にあずかるような人でした。床について足が利かなくなっても、この方の魂はしっかり自立しておられました。かえって私たちが、いったい自分たちは自立しているかどうかを問われたのです。」
「(イエスは)中風の人に、『起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい』と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。」(9:6-7)
イエスは病人を罪から解き放ち、自立させた。ついでながら「起き上がる」と訳された動詞の原形は εγειρω、 「起き上がらせる」の意とともに「死から甦らせる」の意味がある。イエスがラザロを死者の中から甦らせた、という時に用いられるものと同じである(ヨハネ 12:1)。マタイが言う「これほどの権威」(9:8)がどれほどの権威なのかも、自ずから明らかだ。
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