散日拾遺

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本日代休にて、診断の意味や拒薬の心理について思い巡らすこと

2017-10-17 08:10:36 | 日記

2017年10月16日(月)

 『本日休診』は井伏鱒二の名作、こちらは土日の代休。氷雨を幸い終日ひきこもって、今日が締め切りの原稿を書いたり、放送大学科目の録画を見たりしている。

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 『信徒の友』の連載はリレー形式、あるいは皆でキャッチボール形式とで言っておこうか、奇数月は当事者さんが発信し、偶数月はこれを受けてコメントを返す、その反復で連載を編んでいる。受けるボールに身を張って生きる人々の質量がこもり、投げ返す作業に気づきもあれば感動もあって充実このうえないが、大変なのは執筆者よりも編集者である。

 奇数月の記事の中で自身の闘病を振り返る人の、「病気と診断された時はホッとした」という述懐があった。「怠け病」ではないと保証してもらって自分でも安堵したという意味である。裏を返せば、得体の知れない不調・変調が本人の甘えや言い訳の産物ではないのかと、周りからもほのめかされ自分でも煩悶した、長い時間がそこに窺われる。今このタイミングで思い出したのは、土日の授業の質疑で全く同じ趣旨の発言があったからだ。医師から伝えられた病名はそれぞれ違った別のもので、それだけにこの心理の一般的であることがよく知れた。

 医師にとって診断が重要であるのは、それが適切な治療を開始するための理論的根拠となるからである。患者にとっても同じには違いないが、患者の場合それが全てではない。得体の知れない不調・変調に説明を与え、戦うべき相手の正体を示してくれるのが診断のありがたさで、相手が見えてこそ闘うことも可能になる。遡って「怠けではなく、病気である」ことを裏書きしてくれるのも診断の功徳であり、一見して病気とは見えにくい精神疾患の場合、この効果は思いのほか大きく深いはずである。

 このあたりの機微 ~ 医療提供者の心理とは根本的に違う受療側の思いを、医師らの教育の中でもう少しとりあげる必要があるだろう。『信徒の友』は日本基督教団の刊行物だが、この連載の奇数月号などさしづめ多くの人々に読んでもらいたいものである。

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 今回の面接授業は「実践」を一つのテーマにし、「こんな時どうするか」という具体的なお題をいくつか用意して受講生に投げかけてみた。予想以上の食いつきだったり、逆に皆が考え込んで静まりかえったり、対面の醍醐味をこちらも満喫した。

 「医者からもらった薬を『実は飲んでいない』『飲みたくない』と患者さんに打ち明けられたらどうするか」

 これなどは外れのないテーマで、盛り上がること必至である。切り口が多く発展性に富み、これだけで一回の面接授業を組むこともできるかもしれない。熱のこもったやりとりの中で、ふとある場面を思い出してこちらが笑い出してしまった。

 高校生のお嬢さんが、親の勧めで受診してきた。話を聞いてみるとどうやら軽いパニック発作があるらしく、受験を控えて勉強に集中できなくなっているようである。若い人にむやみに薬を勧めたくはないが、ここはさっさと発作を抑えるが上策と説明し、本人も納得したかに思われた。ところが2週間後に来た彼女は、不調が続いているのに処方された薬を飲まなかったという。

 「飲みたくなかったの?何でかな?」

 「自分の気分が、薬で変わっちゃうかと思うと・・・」

 素直に語ってくれた。もっともな不安というべきで、その種の不安をもたないほうが実は心配なのである。ただし、当然予測されることだから初診の時によく扱ったつもりだったが、いざ飲むとなるとあらためて気が差すのも理解できるところ。再度話し合ううちに、お嬢さん、ふと頬を赤くした。

 「あと、ですね」

 「?」

 「薬飲んで発作が治まったら、『勉強しろ』って親に言われるのもイヤだったりして」

 あ~言っちゃった、みたいな表情を作って、きれいな前歯むきだしに笑っている。若い人と話すのは、これだから面白いのである。

 

Ω