2017年10月1日(日)
10月ですか。
週末にデスクトップを整理していたら、古い「切り抜き」が出てきた。「生涯学習愛媛」という雑誌(?)の第45号(平成12年3月)に掲載された、渡部盛幹という御仁のエッセイである。俳誌「渋柿」主宰、書道誌「書神」参与・審査員とある。転載する。
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俳句や書道を勧めると多忙を口実に敬遠する人が多い。退職でもしたら・・・と回避する。閑になって始めるのなら誰でもできる。しかし大成しない。時間的には余裕の乏しい時、つまり忙しい中で取り組んでこそ価値があり、一つの修業と言える。
現職時代から書道と俳句を続けてきた私は普通の人以上に多忙の中を生きてきたように思う。書歴50年、俳歴37年、どちらも毎日の締切が20日で難行苦行にさいなまれた。これがなければ本業がもっと楽にできるのに・・・と嘆息したことが幾度かあった。しかしやめたら最後である。修行の中断は最初から何もしなかったに等しい。
本業と書・俳句の両立を如何にするか - 悩んでいた私を救ってくれたのは次の五言絶句である。
忙裏山看我
閑中我看山
相似不相似
忙全不及閑
忙しさに負けている間は山が自分を見下ろしている。心中にゆとりのある時は反対に自分が山の姿を見ることができる。これは互いに似ているようで実は何も似ていない。「忙」の心は全く「閑」の心には及ばないのだ。という意味で、心の持ち方こそ人間としての大きさや幅を決定するのである。
深夜の書作三昧、紙の上を走る筆の音を聴く時、句境を得て句作に没頭する無我の時間、そんな時、忙しさなど忘れ去っている私を発見した。忙しさの中で忙しさを忘れる時間を持つことができた私は幸福者であった。忙中閑の楽しさである。
この詩の作者は宋の文天祥。「正気歌(せいきのうた)」で有名な詩人である。藤田東湖の「天地正大の気、粋全として神州に鍾(あつま)る・・・」の詩は「文天祥の正気の歌に和す」という題である。文天祥は後に元に捕らえられた時、元王はその才を惜しんで帰順を勧めたが、節を曲げて従うことをせず土牢に繋がれること2年、「正気歌」を作って屈せず、遂に処刑されるに至ったと伝えられる。
http://www.i-manabi.jp/system/HON/SONOTA51_2.html
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