散日拾遺

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氷雨の金曜日の夢と幻

2017-10-21 07:19:37 | 日記

2017年10月20日(金)

 明け方にとんでもなく長大な夢を見た。通常、目覚めた後で語れるような筋のある夢は見ないのに、今日は細部に論理的な無理があるものの、まるで小説みたいな筋のある展開。そのまま書いたら芥川賞を狙える作品に・・・なるわけないか。ああ疲れた。

 起きれば新聞一面に「天皇陛下退位 19年3月末」と大見出し。すぐ思い出したのは漱石の『こころ』である。主人公の父親は明治帝崩御を知って「おれも・・」と呟き、自身の命数をそこに重ねていく。いっぽうでは、乃木将軍夫妻の殉死の報が「先生」に自決の覚悟を固めさせる。明治の終わりにあたって、社会全体がひとつの生命体のように連関動揺する風景が、名作の背景になっている。

 明治と平成ではもとより事情が大いに違うが、案外違わないこともあるかと思われる。何がどう違い違わないか、いずれつぶさに見ることになるだろう。かの有名な『共同幻想論』を僕は読んでいないが、そのタイトルから連想するのはこういったことであり、摂食障害などの健康問題がメディアを介して伝播する現象である。

 雨の通勤はいつも鬱陶しく、とりわけある人々の傘の扱いに辟易する。濡れた足元に構わず構内を走る姿も多く、人に当たったり派手に自分が転んだりするのは、昭和も平成も大差ない。

 着いた先では「日本の秋はどこへ行っちゃったんでしょう」という嘆きを、訪れる面々が例外なく口にした。実際、先週初めは夏が戻ってきたようだったのに、昨日今日はほとんど冬に入っている。北米大陸の中心部に近いセントルイスがこんな具合で、彼の地の春秋は日本に劣らず美しいが、それぞれほんの数日しか続かなかった。気象が大陸化しているということがあるだろうか。平成の初めには日本に秋があったが、平成の終わりには消滅していた、そんなふうに回顧されるのかもしれない。

 もう一つ、平成初年には携帯電話というものが人々の手に存在しなかった。平成の終わりには人の顔を認識して留守電メッセージを伝えるロボットが出現している。

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