散日拾遺

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スティグマについて話したこと

2017-10-22 11:55:17 | 日記

2017年10月21日(土)

 スティグマについて話す機会あり、主催者の動員力で80人余りも集まった。スティグマという言葉を「今回初めて聞いた」参加者がほぼ半数を占める。確かに耳慣れない言葉で、この種のキーコンセプトがカタカナ語なのも癪なところだが、スティグマに関しては提唱者のゴフマン(Erving Goffman, カナダ/アメリカ 1922-82)自身、ことさら耳慣れない言葉を担ぎ出すことで注目を喚起しようとしたようだから、妙ちきりんなカタカナ語であるのが正解かもしれない。「社会的誤訳」という言葉があるのかどうか、schizophrenia を「精神分裂病」と訳したのは逐語変換としては正しくても、社会的機能から見れば大変な誤訳であるというのが持論だが、スティグマの場合は逆にカタカナ語のままに置いておくのが、社会的機能の面から正解かもしれない。

 スティグマ stigma はスティグ stig に由来するギリシア語で、スティグは「奴隷や受刑者の身体に印を刻むための先の尖った棒」を意味する。刻まれた刻印がスティグマで、これをゴフマンは個人や集団に付与される負のレッテルの意味で用いた。偏見や差別の背景にあってそれらを生み出す「レッテル貼り」と考えたらよく、僕にはそれが聖書の告げる「罪」の現代的な表現と感じられる。罪を免れる人間はなく、スティグマ付与を行わずに生きられる人間はない。

 面白いことに、スティグマという概念にはひとつだけ「肯定的な」用法がある。いわゆる「聖痕」がそれで、十字架上のキリストに完全に(あるいは過剰に)同一化した信徒の脇腹や手足に、槍の刺し傷や釘のうがった穴が現れることを指す。ナザレのイエスがユダヤ人共同体から瀆神者という最大のスティグマを冠せられ、呪いともに屠られたことと考え合わせる時、こうした現象をスティグマと呼ぶことの意味が深く実感される。

 

 そんな次第だから、キリスト教的な集まりでスティグマについて語りあうことを大いに楽しみに出かけたのだが、少々あてが外れた。講演後の熱心な質問者らはスティグマのスの字にも触れることなく、日頃の自分の疑問やら主張やらを蕩々と論じていく。いろいろなところで話をするが、こんなことはあまり記憶になくて驚いた。こちらの伝え方がよほど悪かったか、しかし、通じた手応えを感じさせてくれる人も確かにあったと思う。

 スティグマ問題は、間違いなく今後の日本社会の試金石になる。実際にはずっと前から試金石としてそこにあったのに、その存在すら明確に認識されてこなかった。すべて、これから。

 

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