散日拾遺

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歌の効用 笑いの力

2019-06-01 14:32:47 | 日記
2019年5月21日(火)
 歌というものの力について(承前)
 まずは、われらが文学史の劈頭を飾る『万葉集』。四千数百首の中に詠み人知らずや防人の歌が多数採録されていること、歴史のこの段階でのこの壮図は言うに及ばず。
 その後も「歌」というものが公家貴人の狭い社会に収斂することなく、たとえば「辞世」という形で武家のたしなみの一部を為し、「狂歌」という姿で庶民の中に拡散浸透していくことが、さらに大きな不思議である。伊達や酔狂のお楽しみではなく、生活者の現実の力となり得たからに違いない。
 その相を中世文学に繰り返し見る。

【ものくさ太郎】
 『御伽草子』を形づくる多彩なジャンル、多様な「草子」の中で、『ものくさ太郎』はひときわ異彩を放っている。谷崎は「怠惰」がテーマとなり得る点をとりあげて、欧米の文学には見られない特徴と評したが、彼を魅了したものはそれだけではなかったはずである。
 まあ猥雑と気品の奔放な混交とでもいったものだ。超絶的なナマケ者が送り出された先で一転愚直に励み、剰え配偶者さがしに驚くべき能動性を発揮する変貌ぶりも面白い。これは『三年寝太郎』説話に通じるもので、河合隼雄氏なら「創造的退行」の系列に数えるものか。

 しかし、ここで注目したいのは、怠惰で下品で不潔な市井の「太郎」が、どういうわけか秀逸な「歌」のセンスをもっている不思議である。そこに感応した女性が途方もない求婚を受け容れるに至る、その展開が最高に面白い。

 「あな恐ろしのものの心や。是まで尋ねて来る不思議さよ。人こそ多きに、あれ程きたなげにいぶせき者に思ひかけられ、恋ひられたるこそ悲しけれ」とて歎き給ひける。」(文庫(上) P.217)
 大学入試などでこの下りの現代語訳を出題してみたら面白いだろう。ともかくこれほど(当然ながら)嫌っていた、というより恐怖していた女の心が、歌をやりとりするにつれ次第に融けていく。
 「女房これを聞き、あなやさしのものの心や、泥の蓮、藁苞金(わらづとこがね)とは、かやうのことにてもや侍らん」
 さらには
 「此上は力なし(=仕方ない)、具して参り候へ」
 と、小袖・直垂・烏帽子などを整えてやることになる。それを下女が太郎に着せる場面というのがまた傑作で、

 「髪を見るに、塵ほこりしらみなど、いつの世に手を入れて、ときあげたるけしきもなし。されど漸うこしらへて、烏帽子をばおしかぶせ、なでしこ(註:下女の名)手をひきてこなたへこなたへとつれて行きければ、ものくさ太郎、わが国信濃にては、山巌石をこそ歩きならひたれ、かやうに油さしたる板の上をば歩みならはず、こなたかなたとすべり廻りけり。」
 まるでチャップリンだ。
 上等の床を歩き慣れない物くさ太郎、しまいに足をすべらして派手に転び、女房が宝物にしている上等の琴を壊してしまう。さあここだ。

 「女房是を見て、あさまし、いかにせんと涙ぐみて、顔に紅葉をひき散らしてかくなん、

  けふよりはわが慰みになにかせん

 物くさ太郎いまだ起きもあがらず、あさましと思ひて、女房の方をうち見て、

  ことわりなれば物もいはれず

 と申しければ、あなやさしの男の心やとおぼしめして、よしよし是も前世の宿縁なり、かやうに物思ひかけられらるるも、今生ならぬ縁にてこそかくもあるらんとおぼしめして、比翼の語らひをなし給ふ。」(P. 221)

 太郎のつけた下の句は、琴破り(ことわり)と理(ことはり)とをかけた見事な返しで、これはもう唸るほかない。なんて素敵な場面だろう!
 それにしても、この不潔なナマケ者のどこにこんなセンスが宿ったか、実はこれ「仁明天皇の第二の皇子、深草の天皇の御子、二位の中将と申す人、信濃へ流されて年月を送り給ひしが、一人の御子もなし、是を悲しみ給ひて善光寺の如来に参りて、一人の御子を申しうけ給ひて、御年三歳にて二人の親におくれ給ひて、その後凡夫の塵にまじはり給ひて、かかる賤しき身となり給へり」という落ちがついている。物語にありがちの貴種流離譚の筆法は、しかし辻褄合わせにすぎない。
 歌の心は誰に宿るとも知れず、いったん動き出しては聖なる霊のごとく、身分も出自も貧富もすべてを超えて人を結ぶという、そのことが凄い。

【辞世遁世】
 前項で基久遁世の歌を見たが、遁世は現世を捨てるという意味で辞世に通じる。荒くれ武士どもが競って辞世を残し、かつその中に良質の詠嘆と諧謔の含まれるなど、ただ事ではない。こんな文化は世界にも珍しいのではあるまいか。
 
  世にありし時には人の数ならで憂きには漏れぬわが身なりけり
佐介右京亮宣俊

 これは太平記第11巻11『金剛山の寄手ども誅せらるる事』にある。(文庫2巻、P.205-6)
 佐介右京亮宣俊という人の素性は不詳、北条一門とだけわかっている。金剛山は楠木正成が千早城、赤坂城に依って鎌倉幕府軍を苦しめた官軍(後醍醐天皇方)の拠点で、宣俊は北条勢の一人として寄せ手(攻囲軍)の中にあったが、思うところがあったと見え、早い時点で幕府方を離脱し官軍に投降・帰参する。
 ところが幕府滅亡後の北条氏誅伐の嵐の中で、帰参を認められずあえなく斬られてしまうのである。その辞世が上の一首、「この世にあった時は北条一門の人数にも数えられなかったのに、一門が滅ぶときは、他の人々と同じ運命をたどるわが身であることよ」と訳注がついている。
 訃報を受けた鎌倉の奥方がまた天晴れで、

 「女房、聞きもあへず、ただ涙の床に伏し沈みて、悲しみに堪へかねたる気色に見えけるが、寝ながら傍なる硯を引き寄せて、形見の小袖のつまに、
  
  誰見よと形見を人の送りけん堪へてあるべき命ならぬに

 と書き付けて、形見の小袖を引きかづき、刀を胸に突き立てて、忽ちにはかなくなりにけり。」(文庫、P.207-8)

 こちら、流れ星の光芒にも似た一瞬の絶唱、あざやか、みごと。
 宣俊自身の辞世は趣が違う。現実政治の不条理に翻弄された不遇の大器が、非業の最期にあたって自分の運命を軽くいなす、皮肉な諧謔の調子。「死んでも死にきれない」執着が、「笑って死出の旅路につく」静かな勇気に転換する、この機微が読み手の生涯に、一転して不滅の輝きを添えるようだ。
 ユーモアについて、フロイトが「超自我へのエネルギーシフトによる現実の克服」といった説明を与えていたかと思うが、辞世はこの意味でのユーモアの正統な系列に属する。むろん宣俊のそれに限らず、「風さそう花よりもなお」(浅野内匠頭)でも「埋もれ木の花咲くこともなかりしに」(源頼政)でも同じこと。日本人がユーモアを知らないというのは、これだけ見ても大きな誤りと思われる。
 なお、源頼政は鵺(ぬえ)退治の英雄だが歌心もあったと見える。鵺退治の褒美にかねて心を寄せていた女官(藤壺の菖蒲)を賜ろうとの上皇だが、「同様に着飾った12人の美女の中から、件の女官を夜目遠目に正しく見つけ出せたら」と底意地の悪い戯れをしかける。『クラバート』の悪魔みたいだ。このとき頼政、苦衷を見事に歌に表し、それに感激した関白太政大臣の藤原某が、自ら菖蒲女官の手を引き「これこそ、汝が宿の妻よ」と頼政に与えた話が『太平記』に見える。(巻21-8 塩冶判官讒死の事)

  五月雨に沢辺の真薦(まこも)水越えていづれ菖蒲と引きぞわづらふ
(文庫(3) P.435)

【狂歌とりわけ風刺】
 辞世が人に三途の川を超えていく弾みを与えるものだとすれば、狂歌・風刺は生き続ける生活者に強力な武器を提供するものである。これも『太平記』に例がたくさんある。

  賢王の横言になる世の中は上を下にぞ返したりける
詠み人知らず(文庫(2) P.401)

 「賢王(けんおう)」をひっくり返せば「横言(おうげん)」になるが、現に賢王(今上帝)から横言(およそ守られる保証のない口約束)が多発され、世の中がひっくり返っているというほどの意。皮肉られているのは他ならぬ後醍醐天皇で、建武新政の失敗の一因が鮮やかに喝破されている。『太平記』は南朝正統論に立っているものの、簡単には食えないのがこういうところである。次も同趣旨。

  かくばかりたらさせ給ふ綸言の汗の如くになど流るらん
(同、 P.404)

 「綸言汗の如し」(帝の言は取り消せない)という漢書・劉向伝を踏まえ、建武新政にあたって信頼性のない綸言が「汗のように」乱発されたことを、「たらす」(汗を垂らす/人を誑す(だます)」を掛詞として揶揄したものらしい。痛烈である。 

【戦場のユーモア/恐怖の解毒剤】
 テルモピュライの戦いを前にして、スパルタ軍のある兵士が「ペルシア軍が一斉に弓を射ると、空一面の矢で日が翳るほどだそうだ」と言うと、もう一人の兵士(レオニダス王?)が答えた。
 「それは好都合、我らは涼しい日陰で戦うことができる」
 現実の恐怖をユーモアで克服する好例で、フロイト説はここにも援用できるか。出典はたぶんプルタルコス『対比列伝』。
 
 この鮮烈にはやや後れを取るが、下記も同様の状況における同型の切り返し。

  多くとも四十八にはよも過ぎじ阿弥陀峯にとぼす篝火
(『太平記』 文庫3巻、P.154)

 建武3(1336)年春、九州で力を溜めた足利が上洛し、5月には楠木正成が湊川で討ち死にする。翌6月、新田と足利が京都で激突し、あわや主将同士の一騎打ちとなりかけた、その直前のこと。東寺を本陣とする足利勢に対し、数と勢いに勝る新田勢は心理的に圧力をかけるべく、四国勢に命じて京都盆地を見下ろす阿弥陀峯に毎夜多数の篝火を焚かせる。「その光、二、三里が間に連なりて、一天の星落ちて闌干たるに異ならず」という光景。
 「あらおびただしの阿弥陀峯の篝や」と意気阻喪する足利勢に対し、高師茂(師直の弟)が即興で詠んだとされるものである。阿弥陀如来の誓願が48箇条であることを踏まえたもので、多いと言ったってたかだか48本かそこらであろうと、
 「一首の狂歌に取りなして戯れければ、満座、皆ゑつぼに入りてぞ咲(わら)ひける」
(文庫(3) P.154)
 恐怖を一瞬で無毒化する笑いの特効、「ゑつぼ」は「笑壺」で、「ゑつぼに入る」が慣用句である。まさに笑いのツボに入ったのだ。

 「さしもおぢ恐れつる心に、いつの間にか替はりけん、今はみなゑつぼの会(ゑ)なり」(源平盛衰記)

 いつの時代にも笑いは恐怖の解毒剤、戦乱の中世に狂歌の発達した事情が自ずと察せられる。そして現代・・・
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