散日拾遺

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西へ日帰り

2019-06-09 07:29:20 | 日記
2019年6月8日(土)



 なだらかな山の平たい頂を、雲が分厚い真綿のように覆っている。層積雲ということになるだろうか。大垣市あたりで新幹線の車窓から南の眺め、養老山地の北端にあたる。


 京都の入口で必ず目にとまる、注視すれば恐ろしげな「黒衣の」塔。
   "Look at that."
   "Wow, pagoda!" 
 と、前席の米国人(以外ではあり得ない)女性グループ。なるほどパゴダか、それには違いないね。
   言わずと知れた教王護国寺、いわゆる東寺である。従兄の家が近いことから、京都の寺社の中で最初になじんだ。『太平記』を読んで一段と印象が強まったのは、武家がしばしばここに本陣を置いたからである。
 建武3(1336)年の戦いで阿弥陀峰の篝火をめぐるやりとりがあったことは先に書いた。その折り、新田義貞が足利尊氏に一騎打ちを挑んだのもここらしい。門前で呼ばわり挑発する義貞に、応じて立とうとする尊氏を幕僚が中国の故事を引いて懸命に諌止する。項羽が劉邦に挑戦した時、劉邦はせせら笑って応ぜず、「汝を討つに刑徒をもってすべし」と嘲ったのではなかったか。怒り心頭に発した項羽の放つ矢が、前を守る兵士の体を貫いてなお劉邦に手傷を負わせたが、それもそこまで。項羽といい義貞といい、戦況利あらずと見て乾坤一擲の勝負手に訴えたのである。
 18年後の文和3(1354)年の戦いでは、逆に宮方が東寺に陣を置いた(第32巻13『東寺合戦の事』 文庫5巻 P.209-)。それにしても黒々と黒く、いつ見ても恐さを禁じえない。


 岳父の帰天したのが一年前の6月8日、それを覚えて阪急線沿いの教会のミサに親族一同20名近くが集合した。当家の三男だけ欠席となったのは、所属の医学部で解剖学実習にかかわる慰霊祭が行われる、奇しくもその当日にあたったためである。
 解剖学の教授であった岳父は自らも献体し、遺骸はまだ戻ってきていない。あるいは三男が、この日に最もふさわしい過ごし方をしたのかもしれない。

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