散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

ふるさとの山に向ひて

2019-06-23 22:32:43 | 日記
2019年6月23日(日)
 

 ほい、ここにも。実にまことに珍しくないお名前なのね。
 城山の東裾を北へ歩いて行くと、ロープウェイの登り口近くに凜々しい騎馬武者像、さてこのお方は?



 加藤嘉明(よしあきら)は加藤清正と同じく元・秀吉の子飼いで、賤ヶ岳七本槍の一人。加藤姓は全国区だが名古屋辺りには特に多い。両加藤とも秀吉没後は家康に随身した。それが秀頼の命運を絶つにつながるなど、清正は思いもかけなかったようだが嘉明の方はどうだったか。
 命を惜しまず名を惜しむのが侍の侍たる所以、だからこそ賭けて甲斐ある親分に付きたいという気分は『太平記』あたりからはっきりしており、それが理由で主を乗り替えることは大半の侍が一度二度経験している。秀頼側近にその認識が甘かったのではないか。征夷大将軍というものの歴史的意義を考えても、もう少し深く読んで幼君の一身を守る知恵がなければならなかった等々、後世から難ずるのはたやすいことである。
 加藤嘉明は伊予に縁が深い。もともと天正13(1585)年の秀吉四国攻めで小早川隆景の与力として伊予平定に功あり、まずは淡路で城持ちとなった。文禄慶長の役でも大いに活躍して6万石に加増され、伊予正木城(現・愛媛県松前(まさき)町)に移る。この時期に家臣・足立重信に命じて伊予川の治水工事を行い、以来この川が重信川と呼ばれるようになった。重信川は道後平野・松山平野を沖積によって作り出した北予随一の一級河川、河川名が治水工事担当者にちなむ例は全国的に珍しいという。
 嘉明は領国経営に熱心であったと見え、20万石の太守となった関ヶ原戦後は石手川の改修を再び足立重信に命じ、その成果を踏まえて慶長6(1601)年に家康から勝山城築城の許可を得る。慶長8(1603)年、城の完成と共に正木城から勝山城に入り、あわせて勝山を松山と改名した。伊予松山の名がここに始まる。
 このあたりの営々たる働きぶりは、天正18(1590)年に関東入りして以来、全力を傾注して江戸建設に励んだ家康の似姿を見るようである。実際多くの大名が家康の姿に新時代の領主のあり方を感得し模倣した中で、さしづめ優等生が加藤嘉明であったかもしれない。地元民としては重信川・石手川の治水と、金亀(きんき)城の異名をもつ名城の縄張り、さらに松山の命名を加えて三つの大功をこの人物に帰することになる。
 寛永4(1627)年、会津の蒲生氏が跡目騒動の責めを問われて伊予松山藩へ転封、入れ替わりに加藤嘉明は会津に入り、寛永8(1631)年に病没している。松山といい会津といい、草創期の徳川にとっては地方のおさえの要衝で、そこを任された加藤嘉明という人物は外様中の別格と見える。同じ賤ヶ岳七本槍の福島正則の改易にあたり、正則の身柄を預かり広島城を接収する大役を担ってもいる。
 実は加藤嘉明の父親というのが、もともと家康の家臣だった。三河一向一揆で一揆側に付いたため浪人することになり、そこを秀吉に拾われたのだが、この一向一揆というものはいわゆる謀反とは性質を異にし、この儀ばかりはと敢えて主君にたてついた譜代の忠臣が少なくない。信心は別なのである。家康の謀臣本多正信なども10年流浪の末に帰参を許された口である。
 加藤嘉明の徳川家との縁も二代にわたって複雑にからみ、そのあたりが徹頭徹尾秀吉党の加藤清正などと微妙に違ったかもしれない。面白いことに加藤嘉明は、大正6(1917)年に至って叙勲に与った。大正天皇が特旨をもって従三位を追贈したというのだが、これはどういう制度、どういう趣旨だったのだろう?

***

 ・・・とこれだけ多弁を弄すれば既にネタはバレバレ、ところは伊予松山で石丸姓が多いのも当然である。ただし今回は用務あり、


 愛媛大学キャンパス内、お城の北に位置する愛媛学習センターで、1時間ほどの小講演+卒業研究ガイダンス+修士課程ガイダンス。無事に勤めた後は伊予鉄にJR予讃線、いずれも単線を乗り継いで祖父母も両親も最寄りにしていた粟井駅へ。下車すればそこは田園。



 碧山と青空が田植え後の水面(みなも)に鏡像を結ぶ。この美しさを日本と呼ぶのだ。


 わが家まで残り400mほど、背景の稜線が高縄半島の頂を為す高縄山、標高986m。思わず口をつく啄木の例の歌:

ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな

Ω