散日拾遺

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「また高齢者」?

2019-06-05 21:23:34 | 日記
2019年6月5日(水)
 毎晩のようにメディアへの ~ 実際には特定TV局への ~ 文句ばかり書いていて自分でも嫌になるのだけれど。

 「また、高齢者運転の自動車が・・・」
 というテロップが、そのニュースの間中ずっと画面左に表示され、アナウンサーらの語る内容も一貫して「高齢者」にフォーカスしている。
 少し前から気になっていたのだが、高齢者が事故を起こすと判で押したように「また、高齢者が」とアナウンスする。しかし非高齢者が珍しくもなく事故を起こした場合、「また、高齢ではないドライバーが事故を・・・」とは決して言わない。これをくり返すうちに、漫然と見聞きしている視聴者の脳内には「また高齢者」のフレーズが刷り込まれ、もっぱらそのことが昨今の問題の元凶であるかのように信じるようになる。
 実際はどうか。バスが暴走した神戸の事故や、右折車と直進車の正面衝突のあおりで幼稚園児二人が亡くなった大津の事故、これらはいずれも高齢者が起こしたものではない。パーキングから出た車が道の反対側の公園に突っ込み、保母さんが子どもをかばって大ケガした事故の運転者も壮年男性である。もう少しヒマなら今年に入っての事故を逐一調べ上げてみたいところだが、手許の不完全なメモを見ただけでも、高齢者問題は痛ましい交通事故の原因の一部でしかないことは明瞭である。

 高齢者の運転免許に関する問題を解決する必要のあることは否定しない。(誰も否定などできない。)ただ、非高齢者が起こしている事故のほうが、僕ははるかに恐ろしい。なぜならそれらの事故は、(超)高齢というリスクファクターが存在しないにもかかわらず発生しており、いったい何がそうしたあり得ない事故を起こさせたか、見当がつかないからである。
 「また高齢者が」といったステレオティピックな報道の仕方は、こうした謎の恐ろしさから人の注意を逸らす効果をもつ。単純で分かりやすい説明を提供することで、複雑で不可解な恐ろしさ、あるいは「原因不明」という恐ろしさを回避する。それが情報の与え手と受け手、双方の利益になるのでもあろうか。
 昨日福岡で起きたすさまじい暴走事故についていえば、当該車両は突如ある地点から追突・接触をくりかえし始め、異常な高速で600mも逆走した末に激突に至った。高齢による単純な運転能力の低下で説明できるものではなく、何かとんでもないことが運転者に起きたことは疑いない。そのとんでもないことは、運転者の高齢と関係しているかもしれないし、していないかもしれない。調べてみなければわからない。
 こうしたさまざまなケースを「高齢者運転」で括ることは、多様な困難を「ひきこもり」で括るのと同様に、問題の解決を促進するより遠ざけるように僕には思われる。

 ついでながら、一律に高齢者の運転のハードルを高くしひたすら返納を推進することは、都会では簡便で有力な対策であるかもしれない。しかし、僕の出身地のように東京人には想像もつかない田舎の場合、高齢者に自立生活を断念させるものに他ならない。これもまた、今日何とかして避けたいことの一つではなかったか。地域や車種を限定するなど、方法はいろいろとあるはずである。

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