散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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恵比寿さんの多い街

2019-07-11 23:40:28 | 日記
2019年7月8日(月)
 佐賀城本丸歴史観ですっかり時間を過ごし、三重津の海軍跡バスツアーは次回までおあずけ、大概こうなるとしたものだ。
 お城の東隣りに佐嘉神社。

 蒼枯として謂われの古いものかとは思いのほか、10代藩主鍋島直正と11代直大の両公が祭神という。藩祖鍋島直茂を祀る松原神社は安永元(1772)年の創建、新社殿(南殿)が造営されたのは明治6(1873)年、別格官幣社としての社格が定まったのは昭和4(1929)年というから、至って新しいものである。乃木神社・東郷神社など、近現代に属するものに近い。
 この位置の背後に広大な駐車場があり、その西側に屹立する大クスノキ群の樹冠あたりで白鷺が多数、あられもない大声で鳴き騒いでいる。入れ替わり立ち替わり場所を争う様子で、これほど大型の鳥がくんずほぐれつの競り合いを演じるのは、他所で見た記憶がない。スマホ写真の解像度では最望遠でもよく見えないほどの高さなのに、鳥特有のムッとした臭いが地上までしっかり伝わってくる。
 ・・・実はサギ神社?

 東へ500mほども歩いたろうか、住宅街の一隅に大隈重信記念館。

 敬愛置くあたわぬ偉人の資料館ではあるが、時間がなくなってきたのと有料なのとで、中には入らず一礼して引き返す。(佐賀城本丸歴史館は入場無料!ただし、大隈記念館の入場料よりいくらか高めの金額を寄付してきた。)Hさんの方は、大隈記念館で長めに時間を使ったらしい。お殿様と総理大臣だが、鍋島直正公が明治維新で活躍した人であるだけに、二つの場所の間に時間差がなくて面白い。大隈もまた、直正公の藩政改革の一環である教育奨励によって、世に出る素地を養った一人である。
 あとは早々に大通りまで戻り、今度は西側の歩道をまたモニュメントを追いつつ駅まで歩く。

#12 大企業へと発展させた実業家 ~ 中富三郎と市村清

 中富三郎は旧姓久光、サロンパスの久光製薬の創始者。市村清はリコーの創始者、1950年に発売されたリコーフレックスⅢによってカメラは初めて庶民の手の届く消費財になった。市村さん(向かって右)がカメラを手にしているのは拡大するとわかる。中富さん(左)の手にあるのは、薬箱だろうか。


#10 近代医学の礎を築いた医学者 ~ 伊東玄朴と相良知安

 伊東玄朴はシーボルトに学び、種痘法の導入に貢献した。相良知安はボードインに師事し、オランダ医学からドイツ医学への乗り替えを新政府に強く進言したとある。いずれも初耳、お恥ずかしい。


#09 日本を代表するお菓子メーカーの創業者 ~ 森永太一郎と江崎利一

 さあ、これが愉快だ。タイトルと御尊名から、どこのどなた様かは一見明白、森永氏(向かって左)は組んだ左手の先に、江崎氏は右手にぐっと掲げて、それぞれ自慢のキャラメルを持っている。この御両所が、いずれも佐賀の人とは!
 

 仕上げはこちら。
#07 青年教育に尽力した社会教育家 ~ 田澤義鋪と下村湖人

 田澤義鋪(よしはる)には、初めて知った。「青年団の父」と称されることでその業績が察せられる。その最期についてWiki は以下のように記す。
 「昭和19(1944)3月、四国善通寺での講演の際、日本軍の勝利を信じる聴衆を前に『敗戦はもはや絶対に避けがたい』『この苦難を通らなければ平和は来ない』と言い残し壇上で突如意識不明となり倒れる。そのまま同地で療養するも、11月に脳出血のため59年の生涯を閉じた。」
 香川の善通寺は弘法大師の生誕地として知られる(異説あり)が、帝国陸軍の第二師団本部があった軍都でもある。この時期この場所でこんな発言をするのは、さぞ勇気が要ったことだろう。青年教育に生涯をかけた人であるだけに、若者の夥しい犠牲の末の敗戦を予見して、おめおめ生きてはおれないといった思いすらあったことだろう。この声に耳を貸すことができたなら、昭和20年夏の惨禍は避け得たかもしれないが。
 下村湖人!この名を懐かしいと思えるのは、僕の世代でも既に少なかろう。名作『次郎物語』の著者である。あなた様も佐賀でしたか。田澤義鋪とはほぼ同年かつ同窓で、大いに影響を受けたらしい。こちらは1955年まで健在であり、戦後日本の若者の再出発に力を尽くしたようである。

 モニュメントに扱われた人々が、おしなべて実学の流れの中にあり、時代が提供し得るものをいかに人々に届けるかという問題意識を共有しているようなのが印象に残った。今の時代に何よりも必要なセンスではないか。
 
***
 
 2時間半12,000歩のホットな散歩を終え、佐賀駅構内をバス停に向けて歩いてくと、案の定向こうからHさんがやってきた。僕とは反対にバスで戻ってきて、鉄道で熊本へ戻るという。また会うような気がしていた。Hさんはバスの窓から、歩く僕を見かけたらしい。
 空港まで30分あまり、外は広々とした田んぼ、車内もがらんと空いている。そういえば、佐賀の市街地は妙に恵比寿さんの多いところだったが、空港ターミナルへ入るところでダメ押しの笑顔に出会った(左)。右は唐人町路傍の唐人恵比寿である。
 恵比寿さんは、佐賀の街に確かによく似合っている。佐賀の街が恵比寿さんに似合ってるのか。
 
 

Ω

佐賀のお城のアームストロング砲

2019-07-11 12:09:53 | 日記
2019年7月8日(月)

 お堀にかかる橋を渡ったところに、クスノキの巨木。もともと対岸にあったものを移植する必要が生じた。数年越しで根回ししたうえ掘り起こし、クレーンで吊り上げて巨大な金属製の器(!)に納め、ここまで運んだのだと。壮挙である。

    第10代佐賀藩主鍋島直正公、号は閑叟 (文化11(1815)年 ~ 明治4(1871)年)。
 写真もヘタクソだが、NHKの電波塔がどうにも邪魔で仕方がない。何も直正公の真後ろに建てなくても良さそうなものだが、そういう風には考えないものかな。

 佐賀城は古くは佐嘉城、別名「沈み城」「亀甲城」とある。平城の備えの薄さを補うため複雑に外堀を巡らせ、敵襲の際は主要部以外を水没させて侵攻を食い止めるからくりをもったことが、別名の由来という。
 もと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したもので、城も藩も九州北部の雄であった龍造寺氏に由来する。天正12(1584)年、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗死したことをきっかけに、家臣である鍋島氏が力を伸ばすことになった。とはいえ鍋島氏は主家を重んじ、隆信の後を継いだ龍造寺政家が病を得た後には、政家が鍋島直茂を養子とし、その直茂の養子に政家の一子高房を入れるという複雑な一体化を模索する。
 その龍造寺高房が慶長12(1607)年に江戸表で妻を刺殺し自らをも傷つけ、これがもとで死去。精神の変調があったようである。政家また後を追うように他界したため龍造寺宗家が断絶し、鍋島氏が江戸幕府から正式に佐賀藩主として認められるに至る。龍造寺家の遺子をめぐって暗闘があったらしく、それが鍋島騒動として世に騒がれ、化け猫話で脚色されるという後日談が付いた。

 佐賀城は何度も火災に見舞われており、特に享保11(1726)年の大火では天守をはじめ本丸建造物の大半が失われた。このためその後の藩政は二の丸中心に行われたが、今度は天保6(1835)年の火災で二の丸を焼失。ここであらためて本丸が再建され、政務が本丸に移る。この時、江戸詰であった九代目に代わり、現地佐賀で政庁再建や人事刷新に辣腕を振るったのが若き十代目の鍋島直正、上掲の鯱の門や下掲の本丸御殿はこの時に建てられたものである。

 本丸御殿は保存状態が素晴らしく、建物の一部は昭和32(1957)年まで子どもたちの礼儀作法の教育の場として使われていた。中の様子や豊富な歴史資料にはあらためて触れるとして、その入り口に据えられた一門の砲に胸騒ぐ思いがした。
 アームストロング砲、これがそれか、もちろん模型であるけれど。

 

 司馬遼太郎『花神』に仔細が語られている。イギリス製のアームストロング砲は、当時世界で最新式のものだった。軍備強化の一環として同砲を購入したものの、破壊力を知る鍋島公は、あくまで将来の国防の備え、日本人同士の戦いに用うべからずとの考えだった。
    官軍の指揮を執った長州人、村田蔵六こと大村益次郎が、そこをまげて頼み込む。使い方について説明したかどうか。ともかく首尾よく借り出したこの砲を、加賀前田藩の江戸屋敷、つまり現在の東京大学本郷キャンパス、三四郎池端あたりに据え置いた。
    慶応4(1868)年、旧暦5月15日、薩摩は正面(黒門口、現・広小路周辺)から、長州は側・背面(団子坂、谷中門)から、上野の高台を強襲する。折から雨模様で文字通り泥沼の激戦数時間、頃合いを見計らっていた大村の命令一下、アームストロング砲が火蓋を切り、彰義隊の本陣めがけて砲弾を撃ち込んだ。弾数は多くはなく、実際の被害よりも心理的な効果が大きかった、そんな記述だったように記憶する。
   狙いは的中、守備側はこれを合図と聞くかのように退却を始める。大村の指図であらかじめ一方だけ逃げ道の開かれていた根岸から東北方面へ、吸い込まれるように退いていったのである。
    完全に殲滅するのでない限り、相手の逃げ道を残しておくのが攻撃側の心得であること、最近読んだ『太平記』で知った。逃げるという選択肢を残すことが、相手の心に迷いを生む。四方を完全に封鎖して逃げ道を奪うのは、実は危険な策。逃げ場を失った兵が死に物狂いで暴れるなら、窮鼠が猫を噛み倒すことも起きるのである。
 そもそもこの戦、官軍は必ずしも圧倒的優位を確立していたわけではない。幕軍の一部でも江戸市中に散開してゲリラ戦を展開したら、江戸中が火の海になってしまう。必死の相手を散らすことなく、ひとまとめにして江戸から落とすという難題に大村益次郎が取り組んだ、その切り札の一つがアームストロング砲だった。
 戦場心理の機微を踏まえ、これを勝利の号砲に使った大村の軍事的天才が『花神』の読ませどころ、その主役の活躍に不可欠の大道具を、鍋島公の熱心が用意していた。
 左の写真左下に写っている説明書きが下に掲げるもの、その文中で砲の射程を1,300~1,600mと推測している。三四郎池から上野の山はちょうど1kmほど、法学部の講義に飽きると上野動物園まで散歩としゃれこんだものだった。その道のりを弾が飛び越え、レンコンの店のあるあたりも飛び越えて激戦の帰趨を決めた。佐賀はこうして歴史の転轍に関わった。


Ω

城下町の大通り沿い

2019-07-11 11:41:08 | 日記
2019年7月8日(月)
 臨床心理学の超大家がどこかに書いていたこと。
 小学生に話をする時には、あらかじめ何人かの生徒の氏名を訊いておき、話の際に「君は○○君だね」と呼びかける工夫をする。当然こどもはたいへん驚き、そして喜ぶ。誰しも匿名の one of them ではなく、名のある個人として扱われたいものだ、云々。
 たいへん偉い人であることは疑いないが、この話は正直いただけない。安直なトリックに邪道のにおいがする。目くじら立てて批判するほどのことではないけれど、臨床心理家が自慢すべきこととも思われない。
 それよりも、初対面の子どもたちに名のって発言するよう励まし、その名をその場で覚えてやったらよいではないか。関わりの中で個人として認められてこそ、喜びにも自信にもなるはずだし、心理面接の中で起きるのはそういうプロセスのはず。地味でもこれが「基本」「本手」というものである。面接前に仕入れたプロフィルを面接の場で開示して、「あなたのことはよく知ってますよ」と得意顔するカウンセラーなどいないし、いたら邪道である。同じことだ。

 「できもしない無理を言うな」と叱られそうだが、これについては弁明の準備があるんだな。面接授業ではまさにそのやり方 ~ 発言の際に名のってもらい、再度発言があった時には、「はい、○○さん」と指名するよう心がけているので。
 けっこう感心されるが、実際にやってみればさほど記憶力が要るわけではない。気合いを入れて一人一人と対していれば、自然に入ってくるものである。もちろん一度で覚えないこと、間違えることは多々あるが、こちらの努力に反応して受講者が力を貸してくれるから、何とかなる。そういうものであり、それが楽しいのだ。
 今朝の時点では39名の受講者中、発言のあった20名ほどの名前と顔を思い浮かべることができる。むろん追加刺激がないから本日以降は忘れていく一方だけれど、一度はこの人々の名を記憶したということが、一期一会のささやかなモニュメントになっている。
***
 モニュメント、そう、モニュメントの街。午後の飛行機まで半日の自由時間、市内の目抜き通りを飾る人物像をたどってみよう、その前に空港へのバスの時間を確認しに向かうところで、おや?
 「Hさん!」
 「おお、先生でしたか、名前ば覚えてくださって、嬉しかです。」
    「こちらこそ、よく発言してくださって助かりました。」
    バス待ちのベンチから立ち上がったHさん、山中で出会ったらツキノワグマと間違われそうな堂々たる体躯と立派な頰ひげ、それにあたたかい笑顔と雅なお名前で、誰にとっても格段に覚えやすい人である。
    熊本で福祉関係の仕事と聞いたが、せっかくの機会なので御同様に半日観光の由、ただ、
   「月曜日は、博物館も美術館も休みじゃと言いよるんです。」
   「そのようですね。放送大学の学習センターと同じですね。」
   彼はバス、こちらは徒歩、行った先でまた会いそうな予感を抱きつつ、いったん別れた。
***
   さて、曇天ながら蒸し暑い中央通り、駅前から南へ歩けば、数百メートルごとに二人一対のモニュメント、いくつか選んで並べてみよう。

#05 日本の近代建築の先駆者 ~ 辰野金吾と曾禰達蔵

#06 明治時代を代表する書家 ~ 中村梧竹

「鎮國之山」

⇒ 「中林梧竹は、富岡鐡齋に劣らず健脚を誇り、たびたび日本一の山、富士山に登頂している。この『鎮國之山』の銅碑は、富士山頂の浅間神社鳥居脇に建てられたもので、明治三一年(一八九八)八月三日に、みずからも登頂して除幕を行っている。七二歳であった。最後に登ったのは、明治三九年(一九〇六)八月、八〇歳のときという・・・」
http://www.all-japan-arts.com/rekishi/0902rekishi.html 



 このあたりは「唐人」という町名である ↑ その由来 ↓



   読めないね、これは。仕方ない、転記。
 「天正19年(1591)、藩に召し抱えられた高麗人李宗歓は、秀吉の朝鮮出兵の際、通詞訳として、また陶工たちの招聘にも重要な役割を果たした。宗歓は利敵行為をしたため故国に帰ることができず、当地に留まることになった。藩主鍋島直茂はこのことを不憫におもい、城下の十間堀川以北の愛敬島村に、慶長4年(1599)宗歓が連れ帰ってきた高麗人の一団を住まわせた。その中にはのちの鍋島更紗を創始した九山道清もいた。唐人(異国人)の住む町として、唐人町と名づけた。
 宗歓の功績に対して、苗字帯刀を許し、十人扶持と海外貿易の永代御用達商の免状を与えた。宗歓は、唐物の繊維品、陶磁器、金物類、荒物など日本にないめずらしい物を輸入し、これを扱う商人が集まってきて、今日の基礎ができた。
 平成11年(1999)、唐人町は宗歓の町づくりから400年の記念すべき年を迎えた・・・」
 やがて高麗人たちの没後には、この付近に唐人神社がつくられ、その霊を祀ったともある。

#08 日本の工学・化学分野の先駆者 ~ 志田林三郎と黒田チカ

#09 背後から失礼、通りの反対側にもあるわけので・・・これは復路に。

#11 知的障がい児教育・福祉の先駆者 ~ 石井亮一・筆子夫妻

 そう、残念なことに歩道は街路樹の日陰、車道は日光燦々、どうしても逆光になるのだ。ストロボを焚かねばならないところだがスマホでは・・・
 やっぱりカメラ、買っちゃおうかな、うん。

 

 のろくさ30分歩いてめでたくお堀端、ワゴンから「こんにちはー」「さようならー」と可愛い声がかかり、保育士さんたちの笑顔がまた涼しい。そしてここは・・・


 35万7千石、肥前は佐賀のお城なのだった。とっくにバレてた?
 いったん項をあらためて・・・

Ω