2019年7月8日(月)
佐賀城本丸歴史観ですっかり時間を過ごし、三重津の海軍跡バスツアーは次回までおあずけ、大概こうなるとしたものだ。
お城の東隣りに佐嘉神社。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/35/8e880d9872728ddf8c859d5b177dc621.jpg)
蒼枯として謂われの古いものかとは思いのほか、10代藩主鍋島直正と11代直大の両公が祭神という。藩祖鍋島直茂を祀る松原神社は安永元(1772)年の創建、新社殿(南殿)が造営されたのは明治6(1873)年、別格官幣社としての社格が定まったのは昭和4(1929)年というから、至って新しいものである。乃木神社・東郷神社など、近現代に属するものに近い。
この位置の背後に広大な駐車場があり、その西側に屹立する大クスノキ群の樹冠あたりで白鷺が多数、あられもない大声で鳴き騒いでいる。入れ替わり立ち替わり場所を争う様子で、これほど大型の鳥がくんずほぐれつの競り合いを演じるのは、他所で見た記憶がない。スマホ写真の解像度では最望遠でもよく見えないほどの高さなのに、鳥特有のムッとした臭いが地上までしっかり伝わってくる。
・・・実はサギ神社?
東へ500mほども歩いたろうか、住宅街の一隅に大隈重信記念館。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/a6/7b5200870932b1904db861ec6556d7f4.jpg)
敬愛置くあたわぬ偉人の資料館ではあるが、時間がなくなってきたのと有料なのとで、中には入らず一礼して引き返す。(佐賀城本丸歴史館は入場無料!ただし、大隈記念館の入場料よりいくらか高めの金額を寄付してきた。)Hさんの方は、大隈記念館で長めに時間を使ったらしい。お殿様と総理大臣だが、鍋島直正公が明治維新で活躍した人であるだけに、二つの場所の間に時間差がなくて面白い。大隈もまた、直正公の藩政改革の一環である教育奨励によって、世に出る素地を養った一人である。
あとは早々に大通りまで戻り、今度は西側の歩道をまたモニュメントを追いつつ駅まで歩く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/69/a73af483e85c4533a78561249e2ad4d5.jpg)
#12 大企業へと発展させた実業家 ~ 中富三郎と市村清
中富三郎は旧姓久光、サロンパスの久光製薬の創始者。市村清はリコーの創始者、1950年に発売されたリコーフレックスⅢによってカメラは初めて庶民の手の届く消費財になった。市村さん(向かって右)がカメラを手にしているのは拡大するとわかる。中富さん(左)の手にあるのは、薬箱だろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/9f/582021e88bd9b199f5bc39b077d7a62d.jpg)
#10 近代医学の礎を築いた医学者 ~ 伊東玄朴と相良知安
伊東玄朴はシーボルトに学び、種痘法の導入に貢献した。相良知安はボードインに師事し、オランダ医学からドイツ医学への乗り替えを新政府に強く進言したとある。いずれも初耳、お恥ずかしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/1a/dfed8c5079e05ffabd2bac202c2f0597.jpg)
#09 日本を代表するお菓子メーカーの創業者 ~ 森永太一郎と江崎利一
さあ、これが愉快だ。タイトルと御尊名から、どこのどなた様かは一見明白、森永氏(向かって左)は組んだ左手の先に、江崎氏は右手にぐっと掲げて、それぞれ自慢のキャラメルを持っている。この御両所が、いずれも佐賀の人とは!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/e2/44b20739e1106def2bfb50aaad66bf54.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/89/1af3c386b798d461c27df5d5948c8e9d.jpg)
仕上げはこちら。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/00/a626d76ba7c915cd0cc359e4208615e6.jpg)
#07 青年教育に尽力した社会教育家 ~ 田澤義鋪と下村湖人
田澤義鋪(よしはる)には、初めて知った。「青年団の父」と称されることでその業績が察せられる。その最期についてWiki は以下のように記す。
「昭和19(1944)3月、四国善通寺での講演の際、日本軍の勝利を信じる聴衆を前に『敗戦はもはや絶対に避けがたい』『この苦難を通らなければ平和は来ない』と言い残し壇上で突如意識不明となり倒れる。そのまま同地で療養するも、11月に脳出血のため59年の生涯を閉じた。」
香川の善通寺は弘法大師の生誕地として知られる(異説あり)が、帝国陸軍の第二師団本部があった軍都でもある。この時期この場所でこんな発言をするのは、さぞ勇気が要ったことだろう。青年教育に生涯をかけた人であるだけに、若者の夥しい犠牲の末の敗戦を予見して、おめおめ生きてはおれないといった思いすらあったことだろう。この声に耳を貸すことができたなら、昭和20年夏の惨禍は避け得たかもしれないが。
下村湖人!この名を懐かしいと思えるのは、僕の世代でも既に少なかろう。名作『次郎物語』の著者である。あなた様も佐賀でしたか。田澤義鋪とはほぼ同年かつ同窓で、大いに影響を受けたらしい。こちらは1955年まで健在であり、戦後日本の若者の再出発に力を尽くしたようである。
モニュメントに扱われた人々が、おしなべて実学の流れの中にあり、時代が提供し得るものをいかに人々に届けるかという問題意識を共有しているようなのが印象に残った。今の時代に何よりも必要なセンスではないか。
***
2時間半12,000歩のホットな散歩を終え、佐賀駅構内をバス停に向けて歩いてくと、案の定向こうからHさんがやってきた。僕とは反対にバスで戻ってきて、鉄道で熊本へ戻るという。また会うような気がしていた。Hさんはバスの窓から、歩く僕を見かけたらしい。
空港まで30分あまり、外は広々とした田んぼ、車内もがらんと空いている。そういえば、佐賀の市街地は妙に恵比寿さんの多いところだったが、空港ターミナルへ入るところでダメ押しの笑顔に出会った(左)。右は唐人町路傍の唐人恵比寿である。
恵比寿さんは、佐賀の街に確かによく似合っている。佐賀の街が恵比寿さんに似合ってるのか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/27/8c7de55d5a916e892d953deef3d54318.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/f9/5329662f1baa05c2ff3c7d309a7bc457.jpg)
Ω