2024年5月10日(金)
> 1909年(明治42年)5月10日、朝日新聞特派員としてペテルブルグに赴き、結核を患って急遽帰国の途についた二葉亭四迷は、ベンガル湾航行中の船室で息を引き取った。
幕末の1864年(元治元年)尾張藩士の子として生まれ、本名は長谷川辰之介。文学を志したところ、父親から「くたばってしめぇ」と罵られたのペンネームにしたのが「二葉亭四迷」である。
その名の通り、迷いに迷った一生だった。陸軍士官学校に入ろうとしたが三度失敗し、外交官を目指して東京外国語学校に入り、ロシア文学の虜になる。小説『浮雲』や翻訳『あひびき』『めぐりあひ』の成功で文名が出るが、道半ばで官吏に転向。次にはロシア語教師として成功するが、教授職を辞して勇躍大陸に渡った。
しかし、すぐに帰国して大阪朝日新聞の記者となる。記者としては失格だったが、文才を買われて東京朝日に移籍。やむなく連載した『其面影』と『平凡』が好評を博す。ところが、文士になるつもりはないと、ペテルブルグ駐在員を志願し、ロシアに向かったのが1908年6月だった。
紆余曲折に満ちた一緒だったが、随所で文才を発揮した二葉亭四迷は、日本のリアリズム文学の先駆者だったことは間違いない。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.136

二葉亭 四迷
1864年4月4日(元治元年2月28日) - 1909年(明治42年)5月10日
元治元年はてっきり辰年かと思ったら子年である。祖父辰蔵の名にちなんだとの説があるらしい。
筆名の「父親に罵られた」説は信用していなかった。およそ武家の言葉とは思われないし、下世話の言葉でも尾張弁なら尻上がりの発音で「くたばってまえ!」になるところである。
本当は処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞え」と罵ったことによるというが、これにも異説があるのだそうだ。別に由来などなかったのではあるまいか。言文一致体の創唱者にふさわしいものであることは疑いなく、それが全てを物語っている。
さて、日露戦争(1904~1905)が起きた時代にロシア語通であったと聞いては、耳をそばだてずにいられない。情報収集や諜報活動への協力が大いに期待されたであろう。経歴中に「1902年、ロシア滞在中にエスペラントを学び、1906年に日本で入門書を出版した」とあり、実際その時期にロシアに滞在している。なにがしかの貢献はあったのだろうが、何しろ気まぐれな御仁なので長期にわたる堅実・持続的な活動が期待できない。それで恃む方も大いに苦労したという話は、確か石光真清の手記で読んだのだ。
亡骸は5月13日にシンガポールで火葬に付され、30日に遺骨が新橋に到着したという。このためシンガポールの日本人墓地にも墓があるそうだ。
ふと気づけば、この人物の作品を一つも読んだことがない。これではどうも申し訳ない。
資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/二葉亭四迷
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