散日拾遺

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5月4日 寺山修司が絶筆「墓場まで何マイル?」を残して逝く(1983年)

2024-05-04 03:01:51 | 日記
2024年5月4日(土)

> 1983年(昭和58年)5月4日、 歌人・詩人・作家・劇作家・評論家・舞台演出家にして映画監督と、多くの分野で才能を発揮した寺山修司が47歳の生涯を閉じた。死後すぐに発売された「週刊読売」には、彼の絶筆となったエッセイ「墓場まで何マイル?」が掲載され、その末尾には、「私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからといって墓は建てて欲しくない。私の墓は、私の言葉であれば充分」の言葉があった。
 寺山は死の二年前に医師の診察を受け、すでに腹水のある肝硬変が認められた。この後、医師は寺山の創作に対する強烈な意欲を理解し、最後の活動に制限を加えることをしなかった。
 翌1982年の一月に、最後の映画「さらば箱舟」の撮影を開始。健康なスタッフでさえ次々に倒れていく強行スケジュールの中、病躯に鞭打って映画を完成する。次いで、十二月には劇団「天井桟敷」の公演を果たし、その後、自宅で療養生活に入った。
 最後は肝硬変に急性腹膜炎を併発して急逝したが、まさに完全燃焼の短い生涯であった。肝硬変は、青年時にネフローゼの治療で受けた血漿輸血から発した肝炎が原因だった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.130

寺山 修司
1935年〈昭和10年〉12月10日 - 1983年〈昭和58年〉5月4日


 さまざまな呼び名の中で「昭和の啄木」というのが、いちばんしっくり感じられる。もっとも、啄木はもっと近い過去の気がしていたし、寺山はもう10年ほども若いと思っていた。
 1980年に渋谷あたりの住居侵入で逮捕され、略式起訴で罰金刑を受けた。一部週刊誌がこれを「女性アパートのノゾキ」と書いた時、かくも非凡な人には凡人とは違った性癖もあるだろうと納得した自分を今にして恥じる。
 実際には市街地での「訪問劇」の上演地をリサーチしていたのであり、渋谷署の副署長も「ノゾキのノの字も、広報簿には載せていない」と発言した由。やり過ぎてやらかした話には事欠かない人物だった。
 僕自身の記憶にいちばん鮮やかなのは『昭和万葉集』の刊行にあたってTV討論に出演し、批判的な立場から持論を述べたことである。1979年前後だっただろうか、歌人・寺山の主張は、歌が叙情的に成功することによって、歌われた現実の救い難い悲惨が曖昧になってしまうという意味のことだった。もちろん、主として戦争の中で歌われた歌についてであり、もっと寺山らしい表現だったはずである。
 面白いことにこのとき寺山は、歌と違った起爆力を俳句に期待する発言をした。歌人なればこそだったか。
資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/寺山修司



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