散日拾遺

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5月8日 メスナーが初のエベレスト無酸素登頂に成功(1978年)

2024-05-08 03:03:09 | 日記
2024年5月8日(水)

> 1978年5月8日、イタリアの登山家ラインホルト・メスナーは、無酸素でエベレストの頂上に達した。同行者はペーター・ハベラー。33歳の超人の誕生であった。
 海抜8000メートルを超えると、酸素の量は3分の1しかないため、当時は脳障害を起こすのではないかと言われていた。そのため、メスナーの登頂も最初は真実かどうか疑われたこともあった。彼は二年後、今度は単独で登頂に成功した。
 メスナーは1944年、南チロルに生まれた。若くしてヨーロッパ・アルプスの山々を制覇し、1970年ヒマラヤの中でも難易度が高く「魔の山」と言われるナンガ・バルバットのルバール壁に挑戦した。この時メスナーは弟を失い、自らも800メートルほど滑落し、臨死体験をしたという。また重度の凍傷により足の指を六本も切断した。
 つらい体験を乗り越えて、メスナーは再びエベレストに挑戦し、8000メートル級の十四峰すべてを制覇する超人的記録を打ち立てた。
 メスナーはその後、1990年に南極点に歩いて到達した。現在は第一線を走退き、山の環境美化運動に活躍している。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.134

Reinhold Andreas Messner
1944年9月17日 -

 名前から想像されるのはドイツ語圏の人物で、事実メスナーはドイツ語とイタリア語が母語とのこと。南チロルはそういう場所である。
 上掲書は「ナンガ・バルバット」の「ルバール壁」と記しているが、おそらく「ルバット」「ルール壁」の方が現地語の発音に近い。そこで起きた悲劇について、より詳しい記事を転載する。

 1970年、ナンガ・パルバットのルパール壁初登攀を目指す遠征隊に、弟のギュンターと共に参加した。登攀の最終段階で天候が悪化するという予報のため、ラインホルトのみが最終キャンプから単独アタックを敢行することとなった。弟のギュンターは下山用の固定ロープを設置する役割だったが独断で兄の後を追い、合流した2人はルパール壁の初登攀に成功した。しかし単独登攀のつもりだったためザイルを持たず、ギュンターが体力を激しく消耗したため下山が困難となる。そのためルパール壁の反対側にある、比較的容易に下降できるディアミール壁からの下山を試みる。テントもシュラフもない状態でビバークを重ね、瀕死の状態で下山したが、ラインホルトは最後に弟とはぐれてしまい、見失ってしまう(このころ遠征隊はメスナー兄弟の生存を絶望視し、キャンプの撤収を開始していた)。重度の凍傷に罹り、歩行も困難な状態で動けなくなったところを地元住民にかついで運ばれ、偶然通りかかったパキスタン軍のジープに救われ、帰路についていた遠征隊となんとか遭遇できたものの、弟のギュンターのほうはついに戻ってこなかった。
 ラインホルトは足の指を6本失ったうえ、弟の死の責任を問われて重い十字架を背負うこととなる。その後、ラインホルトは弟ギュンターの遺体を捜すため、十回にわたってナンガ・パルバットへ赴いている。
 2005年9月になって、ギュンターの遺体が発見された。ラインホルトは弟の遺品が自分の仮説通りの地点で発見されたことで、自身が弟の死の原因を作ったとの疑いは晴れたと訴えた。ギュンターの遺体は家族の立会いの下、地元の村で火葬に付された。

 なお、現在ラインホルトは自身が所有する13世紀頃に建築された城で生活しているという。石の文化はこういうことが可能なのだ。
資料と写真:https://ja.wikipedia.org/wiki/ラインホルト・メスナー

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