2024年5月30日(木)
> 1431年5月30日、ジャンヌ・ダルクが魔女としてフランス北部の都市ルーアンで処刑された。ルーアンには今も火あぶりの薪を積んだという場所が残っている。
当時フランスはイギリス軍の侵攻を受け、百年戦争の真っ只中であった。神の声を聞いた乙女ジャンヌ・ダルクは神の指示通りにオルレアンを奪回し、シャルル往時を国王の座につけた。その後も彼女はフランス全土の奪還を目指したが、イギリスに味方するブルゴーニュ公との戦いに敗退、捕虜となって裁判にかけられ、「教会に従わぬ救い難い異端者」として火あぶりにされた。
彼女の死から25年後、裁判はやり直されその名誉は回復された。しかし、フランスを救った彼女に光を当てたのは、ずっと後世のナポレオンである。
1803年、ナポレオンは「フランスの独立が脅かされる時、優れた栄養が現れて奇跡をもたらしてくれることを、ジャンヌ・ダルクが証明している」という言葉で称えたという。1919年、ローマ教皇庁によってジャンヌ・ダルクは「聖女」と認められた。魔女として死に、死後約500年たって聖女となったわけである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.156
Jeanne d'Arc、古綴:Jehanne Darc
ユリウス暦1412年ごろ1月6日 - 1431年5月30日
> この法廷の裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されている。もっとも有名なものは「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と尋問されたときの返答である。
「もし私が恩寵を受けていないならば、神がそれを与えて下さいますように。もし私が恩寵を受けているならば、神がいつまでも私をそのままの状態にして下さいますように。もし神の恩寵を受けていないとわかったなら、私はこの世でもっともあわれな人間でしょうから。」
— 『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』 86-87頁
この尋問はジャンヌに仕掛けられた神学的陥穽だった。教会の教理では神の恩寵は人間が認識できるものではないとされていた。ジャンヌが尋問に対して肯定していれば自身に異端宣告をしたことになり、否定していれば自身の罪を告白したことになるのである。公証人ボワギヨームは、法廷でジャンヌがこの返答をしたときに「この質問を彼女にした尋問者は呆然としていた」とあとになって証言している。20世紀の劇作家ジョージ・バーナード・ショーはこの問答記録を目にしたときに深い感銘を受け、ジャンヌの裁判記録を『聖女ジョウン』として戯曲に仕立て上げた。
バーナード・ショーの戯曲を教養課程の英語で読んだ。小田島先生のクラスだったと思うが、せっかくの授業の雰囲気も戯曲の内容も頭に残っていない。
ただ、井上陽水のファンだという先生が、「仲良しこよしは 何だかあやしい夕焼け小焼けは それより淋しい」という歌詞を引いて何かの解説をなさったことがうっすら思い出される。
そう、それから助命の機会を与えられたジャンヌが、自然と触れ合うことなく牢獄の中で日々を送らねばならないと聞かされるや、敢然として勧告を拒否し火刑を選ぶ場面があったっけ。
…物持ちよく、40数年前の教科書が本棚から出てきた。そう、ここだ。
Joan "...if only I could still hear the wind in the trees, the larks in the sunshine, the young lambs crying through the healthy frost, and the blessed blessed church bells that send my angel voices floating to me on the wind. But without these things I cannot live; and by you wanting to take them away from me, or from any human creature, I know that your counsel is of the devil, and that mine is God."
The Assessors [in great commotion] "Blasphemy! blasphemy! She is possessed."
P.123
病跡学的にはジャンヌ・ダルクは、てんかん性精神病ではなかったかと言われている。タルソのサウルこと使徒パウロと同じ範疇である。
資料と図:https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャンヌ・ダルク
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