2024年5月19日(日)
> 1560年(永禄三年)5月19日、織田信長が25歳の時である。尾張統一を目前にしていた信長は、尾張の北に構える斎藤義龍と、東から迫る今川義元率いる2万5千の大群に囲まれる窮地に立たされていた。
早朝、小姓六人だけを率いて清洲城を出陣した信長は、父光秀の頃からの家臣である佐久間の軍勢と善照寺で合流した。この時の信長の兵力は二千にも満たず、今川の軍勢の十分の一ほどしかなかった。
今川義元が桶狭間で休息をとっているという一報が入ったのは正午のことである。直ちに信長は桶狭間に向けて進軍。桶狭間に到着した信長を待ち受けていたのは雷を伴う激しい夕立だった。大々的な野営を敷いていた今川の軍勢は動きを完全に封じられていた。信長は雨の途切れた一瞬の隙を突いて、今川軍の本陣を直撃した。これには義元を守る数千の兵もなすすべがなく、劣勢を察知した義元は退却を命ずる。これにより、身辺の守りが薄くなった義元に服部小平太が斬りかかり、ついで毛利新介が義元の首を上げた。
圧倒的な兵力差がありながら今川軍の油断に乗じたこの奇跡的な勝利で、信長は名実ともに尾張の統治者であることを天下に示したのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.145
大曽根寛先生は本来チャキチャキの江戸っ子だったが、生涯の後半は名古屋に住まわれた。八事(やごと)界隈の文教地区で、昭和40年代の僕らの住処から歩いていける距離である。名古屋で会食を計画するうちにコロナ禍に突入し、その後次第に体を悪くされ、コロナ明け寸前にとうとう力尽きた。直前まで科目制作に全力を注がれ、そのお手伝いをしたのが最後になった。
その大曽根先生から「桶狭間の戦いはなかった」との説を伺ったことがある。作り話だったというのだ。
これには面食らった。
「なかったって…でも、西上する今川の大軍を織田勢が迎え撃って、義元の首級を挙げたのは事実なんですよね?」
「だから、なかったんです。」
大曽根先生、澄ましている。
どういう意味だろう?
名古屋で味噌煮込みをつつきながら、ゆっくり伺ってみるはずだった。
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