2021年5月23日(日)
マタイ福音書 22章15節:
「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」(新共同訳)
「言葉じりをとらえて罠にかける」の部分については、いわゆる口語訳の方が原文をよく反映するとM師。
「そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした」(口語訳)
Τότε πορευθεντες οι Φαρισαίοι συμβούλιον ελαβον οτως αυτον παγιδευσωσιν εν λόγω.
παγιδευω(わなにかける)< παγις(わな、おとし穴)
後者はルカや使徒書にいくつかの用例があるが、前者は新約聖書中ここだけらしい。"παγιδευσωσιν εν λόγω" は「言葉でひっかける」といったところか。「言葉の罠にかける」は、なるほどぴったりである。
面白いのは前段で、口語訳はパリサイ人たちが「きて」、新共同訳はファリサイ派の人々は「出て行って」と正反対の訳である。原語そのものが多義的なのだ。
πορευθεντες < πορευομαι: ① 旅を続ける、② ~から去る、③ ~へと去る
ただし②、③の語義はしかるべき前置詞と組むことによって意味が明らかになるようだから、単独で用いられているこの部分は①に準じて自動詞的に訳すべきだろう。「旅」というと大げさだが、もともとある目的をもって移動していた者がその行為を続けていくという意味にとったらどうか。一貫して邪魔なイエスを排除するために運動してきたファリサイが、その動きを続けたと解するならこれまた文脈にぴったりである。
つまり「きた」(=近づいた)のか「出て行った」(=遠ざかった)のかはどうでもよいのだから、「ファリサイ派の面々はまたしても額を集め」ぐらいに意訳してみたい。そこでひねり出した悪知恵を実行すべく、下っ端が送り込まれた。血の気の多い若者らではなかったかとM師の推測である。その顔ぶれにファリサイ派とヘロデ党という折り合わない両派が相乗りしているのが工夫したところで、イエスが是と言おうと否と言おうと必然的に寄せ手の半分は激怒することになる。
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というイエスの名文句は、この窮境で語られた。「神のものを神に返す」とはヨブの証しに通じる人の根本姿勢であり、その射程は征服者に税金を納めるかどうかといった悩ましい瑣事とは、およそ次元が異なっている。次元の違うものを並列するというレトリックがあるのだ。すぐには例が思い浮かばないが、日常生活の中にいくらでもあるはずのことである。
彼らはこれを聞いて驚き、イエスを残して立ち去ったとある。立ち去ったところで、食卓に群がる蠅のようにすぐまた戻ってくるのだけれども。
Ω
マクシミヌス帝時代のデナリオン貨
(https://ja.wikipedia.org/wiki/古代ローマの通貨)