2018年11月8日(木)
翻訳を鵜呑みにせず原文を確認すること、あわせて複数の翻訳をつき合わせて比べてみること、この性癖とりわけ後者の最初のきっかけは、たぶん『赤と黒』である。
高校一年の時に友人から借りた訳本で読み、よく分りもしないまま、あれこれあげつらっていた。しばらくして、たぶん高校の二、三年頃であろう、本屋で立ち読みしていて偶然気づいたのである。第一部の終わり、つまり上下二冊の文庫版だと上巻の最後の頁、ジュリアン・ソレルのおイタがバレてルナール氏邸から遁走する場面。誰かの放った銃弾が身をかすめたところで、厚かましくもこの悪戯者が値踏みする。
「(銃を発射したのは)ルナール氏じゃないな」
ここまでは同じ。その後が、
「あの人の射撃は下手くそだから、こんな風には撃てやしない」(S文庫版)
「あの人にしちゃ、拙すぎる」(I文庫版)
まるで正反対なのである。むろん、どちらかが間違っているのだ。今夕、三省堂二階の文庫コーナーでふと思い出し、確かめてみた。あれから40年以上経ち、誤訳のあった側は訂正したに違いないと思ってのことだったが、何とびっくり、今でも食い違ったままである!
面白くなってきた。同じフロアに洋書のコーナーがある。原著がないかと探したが、残念ながらフランス語版は見あたらず、代わりにペンギンの英訳版が見つかった。ワクワクしながらその箇所を開くと、
"(He's)too poor a shot for this."
shot には「射撃」とあわせて「射手」の意があり、これはS文庫版と同方向の訳である。しかし、だからS文庫が正しいとも限らない、ペンギンも間違えている可能性だってあるわけだが、文の構造が互いによく似た仏・英語間で、この種の間違いの起きる可能性は低かろう。
あとは帰宅後に原文探し。便利な時代、2分で見つかるこのサイトに原著まるまる載っている。 https://beq.ebooksgratuits.com/vents/Stendhal-rouge.pdf
件の箇所は、
Ce n’est pas M. de Rênal, pensa-t-il, il tire trop mal pour cela.
末尾を英語に逐語変換すれば、
He shoots too poor for this.
つまりルナール氏の射撃は「からっぺた」と見切っているわけで、どうやらS文庫の勝ちらしい。このほうが主人公とルナール氏との心理的な布置ともよく照応する。
大出版社の起用した大家の訳でもこういうことが起きる。「必ず原文にあたれ」とは、法学部と医学部それぞれにおける恩師 ~ 片岡輝夫先生と融道男先生 ~ が、奇しくも異口同音に厳しくおっしゃったことだった。学恩に報いるに程遠い毎日ながら、ゼミなどあるたびに「オリジナルにあたる」ことの意義を繰り返し伝えている。中途半端にアタマの回る小才子より、腹の据わった鈍才のほうが愚直に守るようである。
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