2021年5月30日(日)
柿ノ木坂教会 C.S.通信 519号より、著者の許可を得て転載:
エリック・カールの『はらぺこあおむし』は、皆さんの御家庭でも読まれていることでしょう。わが家の子どもたちも大好きで、「アイスクリームと、ピクルスと、ペロペロキャンデーと…」と回らない舌で数えあげては笑い転げていたものです。
食べ過ぎたあおむしは「お腹が痛くて泣きました」と日本語版にありますが、「泣きました」は翻訳者の加筆で英語原文にはありません。この絵本は70以上の言語に訳されているそうです。他の訳ではどうなっているのでしょう。
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腹ぺこのアオムシを実際に飼ってみたことがあります。小学校4年生のちょうどこの季節、家の近くにサンショウの木が群生していました。サンショウはミカンやカラタチと並んでアゲハチョウの大好物です。葉の裏に黄色い卵が産みつけられているのを葉っぱごと持ち帰り、コップに差して机の上に置いたところ、まもなく小さな幼虫が孵りました。
アオムシならぬその黒い幼虫の、まあよく食べること食べること。良い香りのするサンショウの葉を端からもくもく、もりもり、あっという間に裸にしてしまいます。コップの周りに黒いゴマ粒みたいな小さな糞が無数に散らばっています。2,3日経つと一回り大きくなるのは、いつの間にか脱皮した証拠です。大きくなるにつれ背中の白い斑点が目立つようになり、これは鳥の糞に擬態するためと考えられているそうです。
朝起きると糞だらけになった下敷きの紙を取り替え、新鮮なサンショウの葉を取ってくるのが私の日課になりました。脱皮を4、5回くり返すと、もう立派なアオムシで、長さも4cmを超えています。ときどき指に乗せてイボ足の柔らかい感触を楽しんだりしました。まもなくサナギになるはず、わくわくドキドキしながら相変わらずの腹ぺこぶりを見守っていました。
ところがある朝、部屋に入って愕然としました。アオムシの姿がないのです。これまで一度としてサンショウの枝を離れることはなく、カゴやガラスケースで覆いをすることなど考えていませんでした。けれども今は机の周りから壁や天井まで、部屋中どこを探してもアオムシは見つかりません。床にいるのをうっかり踏みつぶしたりしないよう、忍び足で探し回りましたが無駄な努力でした。
サンショウのコップを置いた下敷きの紙の上には、紫がかった液体のべったりした染みが残っています。何か恐ろしい間違いが起きて、アオムシが溶けてしまったのではないだろうか、訳がわからず当惑と落胆を抱えたまま数日が経ちました。
ある日のこと、学校から帰ると、母が待ち構えていたように手招きし、そっと私の部屋のドアを開けました。見あげると、壁の高いところに大きなアゲハチョウが止まり、ゆっくり羽根を動かしているではありませんか!
しばらく言葉もなしに見とれ、それから静かに窓を開けてやると、アゲハチョウは迷わず飛び立ってそのまま高い空へ消えていきました。
アオムシがどこにサナギをかけたか、謎が解けたのは数ヶ月後の引っ越しの時です。学習机の片袖の引き出しの、一番下の段の裏側に、細い糸で支えられたサナギの抜け殻が残っていました。いったんサナギになってしまったら、その場から逃げも隠れもできません。天敵に襲われないよう、見つかりにくい場所を本能的に選ぶことは想像できましたが、サンショウの枝にかじりついて食べてばかりいたアオムシが、こんな周到な準備をしてのけるとは思いもかけませんでした。
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エリック・カールの作品は想像力とユーモアに満ちていますが、アオムシの腹ぺこぶりは作者が幼いときに、自分の目で観察したものに違いありません。
1929年生まれ、6歳以降ドイツで育った作者は、第二次世界大戦前後の故国の惨禍を幼い日につぶさに体験したことでしょう。その中で観察され育まれたアオムシのイメージが、国や世代を超えて受け継がれていくのを私たちは見ています。
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【参考】
「はらぺこあおむし」実は日本で誕生 穴あき・幅が異なるページ 印刷・製本先、米では見つからず