散日拾遺

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ヨハネ命名

2018-12-17 09:00:00 | 日記

2018年12月16日(日)

 待降節第三週。教会の中高生クラスは何にタマゲたのか、朝から日頃の倍以上の生徒が詰めかけ椅子が足りない騒ぎである。エリアの某ミッション校が「何か」を課したのと、クリスマスに備えてハンドベル(の代わりのトーンチャイム)練習があるため、だったらしい。

 ともかく「先週の続きで・・・」というのは大半通じそうもなく、これ幸いにマリアとエリザベトの語らいの場面をふりかえってみる。聞き手は1名の例外を除いて全員10代の女子。彼女らといくつも違わない(あるいはまったく同年代の?)マリア、その母あるいは祖母に近い年齢のエリザベト、ともに思いがけず胎に子を宿した遠縁老若の女二人が、たがいに労(ねぎら)い寿(ことほ)ぐ美しい場面である。「その胎内の子がおどった」(ルカ 1:41)に少しの誇張もなく、部屋の戸を閉める音にすら鋭敏に反応する胎児が、母の昂揚に正しく同調したに違いない。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(同 1:45)

 微笑みを呼ぶ聖書の筆致が、ここにも仕掛けられている。主の言葉が実現するとはとても信じられず、おかげでとんだ災難を被った者が言外に対置されているのだ。他ならぬエリザベトの夫ザカリヤ、彼こそ今朝の主人公である。

***

 ルカの福音書はザカリヤの物語から始まる。マタイが例の長い系図から始めるのと対照的、マタイが歴史から個人へ降りていくのに対し、ルカは個人から歴史へ舞い上がっていく。

 ザカリヤは祭司であったが、この年「主の聖所に入って香をたく」という重い役があたった。註解書によれば当時パレスチナに総べて18,000人の祭司があり、24の組に分かれて聖務を遂行したという。各組750人の計算である。「アビヤの組」が時の当番、その中でさらに籤を引いてザカリヤが指名された。単純な「くじ」に神意が示されるとの思想は旧約以来くりかえし表れている。

 まさに宝(の)くじを引き当てたザカリヤだが、これ真に大役である。ただひとり至聖所に入って香を焚き、そこで示された神の言葉を民に告げるのだ。神託がイスラエルの命運を左右するともなれば、共同体全体の存亡に関わる重大使命と言える。

 果たしてザカリヤの前に御使いが現れた。当然の反応として不安・恐怖に襲われるザカリヤに御使いが何を告げたか、

 「あなたの妻エリザベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」(同 1:13)

 は?

 ザカリヤの混乱や思うべし。彼は公務で至聖所にいる。よもや自身の家庭がテーマになるとは予想の端にもなかったであろう。まして彼は老齢、妻も老齢、「不妊の女、子のない夫婦」という古代社会では最大級のスティグマを覆すべく祈り祈った年月の末、ついに諦め運命を甘受するに至ったこの時この場で、その話ですか?しかも、老妻がいまさら受胎?

 「御使い様、悪い御冗談を、ぜんたいそれは無理と申すもの、そもそも何を根拠に・・・」(同 1:18 意訳)

 震えながら四の五の言うザカリヤがもっともというもので、酷似した反応はイサクの誕生を予告されたアブラハムとサラの夫婦に前例がある(創世記 18章)。99歳のサラは御使いの言葉を聞いてひそかに笑い、「なんで笑うの?」「笑ってません」「いいや、笑った」と押し問答の末、生まれた男子がイサク(笑い)と名づけられることになった。

 どうも聖書に登場する御使いは、しかつめらしい外見の下でユーモアを含まずには任務を遂行できない生まれつきのようである。ガブリエル、この度はザカリヤの口を封じた。

 「あなたは口がきけなくなり、この事の起きる日まで話すことができなくなる。時が来れば必ず実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(同 1:20)

 「つべこべ逆らうこの口は、チャックしちゃうよ」というわけで、子どもの減らず口を業を煮やしてセロテープで封印した、どこかの母親を思い出す(親子のじゃれ合いであって虐待ではないことを急ぎ付け加えておく)。セロテープならすぐ剥がせるが天使の封印はそうはいかない。

 それからエリザベトの懐妊が明らかになり、妊娠が進行して臨月を迎え、ついに男子が誕生するまでの一年近く、ザカリヤの胸中はどうであったか。口をきくことのできないつらさもどかしさとともに、黙って見守る時間の切ない豊かさをも満喫したに違いない。無言の行の恵みである。

 「語る前に、まず満ち溢れねばならない」 ~ Also sprach Zarathustra

 満を持してあふれ出したザカリヤの預言が 67-79 節に開花する。それに先立ち命名のこと。当時のイスラエルでは子の命名に厳格なルールがあった。そのほうが人類史上の標準形であることは、日本各地の例でも分かるし最近までの(現在でも?)韓国人の命名習慣からも知られる。

 しかし男子の奇跡的な誕生を現実に体験した今、夫婦はガブリエルの命を奉じて揺らがない。

 「この子の名はヨハネ」(同 1:63)

 「ヨハネ」は「主、恵み給えり」の意とある。「恵みを与えられるだろう」ではない「与えられた」である。「約束されたことは、既に実現したのと同じ」という絶対の信頼が、この名に託されている。

Bartolomé Esteban Murillo, "The Birth of St. John the Baptist" (1655年頃)

(https://blogs.yahoo.co.jp/htanakaakanath/12096435.html より拝借)

Ω


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