晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.28
1月23日 青森歩兵第5連隊が八甲田山雪中行軍に出発する
1902(明治35)年1月23日、陸軍第8師団青森歩兵第5連隊210名は、雪中行軍訓練のため往復二日の行程で筒井の営舎から田代温泉に向かった。訓練はそり14台を兵士が曳く糧食輸送の研究目的で行われ、目前に迫った対ロシア戦を念頭に置いたものだったという。しかし、その日のうちに天候が急変し、猛吹雪の中で道を失った部隊はやむなく露営、さらに翌日も悪天候の中をさまよい、部隊中199人が凍死する大惨事となった。
一方、同じ1月の20日に八甲田山踏破を目指して出発し、生還した部隊があった。福島泰蔵大尉率いる弘前歩兵第31連隊の精鋭37名である。こちらも雪中行軍の訓練だったが、万全の装備を整え十泊十一日の行程で弘前の連隊本部を出発した。福島大尉はロシア軍の冬季行軍の情報を参考にし、現代の冬山登山にも十分に通用する細かな注意を隊員全員に徹底させた。この福島大尉の指揮力が二つの部隊の明暗を分けたのである。
第5連隊の惨事の原因については、準備不足と異常な悪天候、指揮官の判断ミスなどがあげられている。遭難者の捜索は難航を極め、最後の遺体は約半年後に回収された。
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この事件は新田次郎(1912-1980)の『八甲田山死の彷徨』(1971)に詳しく、これをもとに制作された映画『八甲田山』(1977)が評判になった。高倉健はじめ錚々たるキャストで、とりわけ北大路欣也扮する第5連隊の神成大尉(映画では神田大尉)が四方も上下も雪に閉ざされ、「天は我々を見放した」と呻く悲痛な場面が記憶に鮮やかである。当時はあまり気に留めなかったが、災害への備えを考える上で貴重な教訓を伝える事件と思われる。
210名中199名が凍死したということは、11名は救助され生還したのである。Wikipedia 「八甲田雪中行軍遭難事件」によれば、11名中8名が凍傷のため手または足の切断を余儀なくされたとある。ただし11名中、最も長命したのは8名の一人である小原忠三郎伍長で、両足と手指を切断されたものの1970年に91歳で天寿を全うするまで療養所で健在だった。事件の関連情報は旧陸軍によって厳重に秘匿されていたから、詳細が明らかになったのは陸上自衛隊関係者や作家小笠原孤酒による、小原氏への戦後の聞き取りに負うところが大きい。
一方、福島泰三大尉(映画では徳島大尉)の事前準備および行軍指揮は見事な成功事例であり、範とされ大いに称揚されて良かったはずであるが、話はそう簡単ではなかった。青森隊と弘前隊が同時期に八甲田入りしたのは偶然によるもので、少なくとも公式には互いの動静を知らなかったとされる。ところが実際には弘前隊が行軍中に青森隊の遭難を目撃した形跡があり、それにもかかわらず救助活動を行わなかったとして非難する説があるらしい。
二次資料を見ただけでは真偽のほどは分からないが、そもそも199名の屈強の若者を凍死させた雪地獄の中、自身も遭難の危険にさらされながら「救助」ということができるものかどうか甚だ疑わしい。安全なところから揚げ足をとるのは容易いことで、福島大尉はその種の揚げ足取りに悩まされた印象がある。
同大尉の人柄についてもう一つ。遭難した軍属は事故後に手厚く遇されたが、案内人として徴用された地元民は配慮の外に置かれた。これに対して地元村長から、「七人の案内人の凍傷治療に要する費用を陸軍が負担してくれるよう、助力してほしい」との手紙が福島大尉宛てに送られ、これが同大尉の遺品中に保存されていたという。村民は福島大尉ならば助けてくれるかと期待し、大尉またこの手紙をよく保存していたのである。その願いが届いたかどうか手元ではわからない。戦陣から無事復員の暁には一臂の労をとるべく、手紙を保存していたとの推測もできるだろう。
福島泰三大尉(1866-1905)は現在の群馬県伊勢崎市出身、小学校教諭から陸軍軍人に転じた。1902年に八甲田山の雪中行軍を成功させた後、歩兵第32連隊第10中隊長に任じられる。日露戦争二年目の1905年1月28日、黒溝台会戦において戦死。奇しくも八甲田山で遭難した青森連隊の生存者11名中、最も健常であった倉石一大尉が一日前の1月27日に同じ黒溝台で戦死している。
黒溝台ではグリッペンベルク率いるロシア軍の猛攻に対し、日本軍が苦戦の末に辛勝をもぎとり、旅順要塞攻略に続く日露戦争の転換点となった。その惨戦のありさまは司馬遼太郎『坂の上の雲』に詳しい。
冬の八甲田山 https://ja.wikipedia.org/wiki/
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