2017年7月29日(土)
名無しさん、ありがとうございます。身に余るとはこのことで、真顔でお返事するのも恥ずかしいのですけれど。
言葉に関しては両親それぞれゆるがせにしないところがあり、しかも父は軍隊式に正確で簡潔明瞭な表現を尊び、母は文学的な美しさを喜ぶという違った面があったことで、何かしら養われたように思います。その両親に連れられて各所の地方都市で育つうちに、方言のもつ豊かさを知ったのも幸いでした。
特に意識していることがあるわけではないのですが、美しく力強い日本語文のお手本 ~ 記紀万葉から現代作家に至る ~ に少しでも倣いたいということと、生活の中から産み出される生活者の言葉に敏感でいたいということぐらいが、強いていえば頭の片隅にあるでしょうか。
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勝沼さん、ありがとうございます。また鋭いところを突かれましたね。(この「突かれました」は尊敬か、受け身か?)
> 「可能を表現する時のら抜き言葉は受け身等の他の”られる”との区別の為に変化したのではないか」
そうなんですよ。だから「ら抜き言葉は機能的には本則より優れている」という指摘を以前にも聞いたことがあり、なるほどと思いました。若者言葉、侮るべからずです。
面白いことに、伊豫弁(など)では昔から「可能=ら抜き」が本則だったのですね。「見れん」(=見ることができない)「食べれん」(食べることができない)は帰省の際に彼の地のデフォルトとしてよく聞き慣れており、ら抜き言葉が「標準語」で出てきたときには不思議な気もちがしたものでした。そうそう、伊予弁では「行けない」は「行けん」ですが、尾張弁で「行けれん」という表現を訊いたことがありましたっけ。
いずれにせよ、某放送局が定着させたがっている「される」敬語にはこの種の合理性がなく、逆に不都合すら生じると思われます。
> 「話し言葉としては使ってしまうのですが ・・・ 書き言葉としてだと、ら抜き言葉は何か居心地が悪くて。」
そうですね。それでいいのだと思うのですよ。仮に破格の方に合理性があるとしても、いったん確立した本則は書き言葉に関して軽々しく変更すべきではありません。その理由の一つは、外国語を母語とする者が日本語を学び日本語の文章に接する際の便宜ということです。詳しい説明は無用でしょう。
さて、そろそろ単位認定試験を受けに行ってきます。今日は『韓国語Ⅰ』、この学びが成立するのも、書き言葉の安定性あればこそですから。
Ω
『不登校を考える なぜ九十年代に不登校が急増したのか』
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