2013年8月4日(日)続き
佐野陽子さんがジャガーを衝動買いした話をアップしておいて、
清々しい朝の空気の中を教会へ
教会学校の合同礼拝は午前9時開始、
9時10分に着けば、ちょうど次男が話し始めるところだろうと読んで、
もくろみ通り9時10分ぴったりに礼拝堂を見下ろす3階席に身を潜める。
何と次男の話はまさに終わろうとするところ、進行早すぎだろ!
声をあらためて結句を告げる、そこだけが耳に入ってきた。
「神様は必ず、一人一人にふさわしい役割を与えてくださる。
そして、役割を果たす力をも与えてくださる。だから大丈夫。」
子供たちに笑顔で語って説教を締めくくった。
うーん・・・
ただいま大学3年生、進路検討中の彼が、自分に言い聞かせる言葉でもあるんだな。
しかし、育ったもんだ。
彼は、父の言葉を子どもたちに伝えている。
僕の、ではない、大文字の「父」の言葉だ。
伝える作業を、彼に教えるのは僕の「役割」だったが、彼は既にそれを自分自身の作業にしている。
とすれば、僕の仕事はこの括りではめでたく終わったのだ。
あとは彼が「父」とともに進めていく。僕には僕の作業がある。
「わが事、成れり」あるいは単に「成れり τετελεσται」
ヨハネ福音書の伝える、イエスの最後の言葉だ。
何が「成った」のか。明示されていないところが心憎く、発見が読者にゆだねられている。
その自由を活用してひとつあげるなら、
「父」と子らの接続を回復し、「父」の言葉をあらためて子らの内に置く、そのことではなかったか。
いま、まさしく τετελεσται・・・
*****
何となく皆に見つかりたくなくて、「おとなの」礼拝までの空き時間をY住区の図書館で過ごす。
快適な良い空間だ。
漫画を読んでいる少年が素っ頓狂な笑い声を立てる以外は、みな黙々と自分の作業に集中し、あるいは思いに耽っている。良い空間だ。
僕はなぜだか、碁がつまらなくなっている。信じられないことだけれど。
もともと勝ち負けにこだわるつもりはなく、ただ、ある水準までは上達したいと思っていた。
「古今の棋譜を並べて鑑賞できるほどの水準」までだ。
妙手の妙手たる所以を理解し、棋譜から対局者の心理の機微が読み取れたら、どんなに楽しいか。
それには自分自身がある程度打てなければダメなので。
もうひとつ、打つ以上は自分の打ちたい流れで打てるように。
相手があることとはいえ、勝負にこだわらないなら「一貫して自分のスタイルで打つ」ことはヘボでもできるはずだ。形を崩さずきれいに打つこと、石を捨てて外に回ること、のびのびと攻撃的に打つこと・・・
どちらも、何もできていない。
今の日本の標準ならアマ4~5段は称して良いのだろうから(海外は概してもっと厳しいという、逆みたいだね)、その意味で不足は言えない。
でも、まだまだ名局の鑑賞などはできそうにもなく、対局ではどう打てば自分らしい碁になるのか、皆目わからなくなっている。不全感をもって望むから当然戦意はあがらず、「盤上の格闘技」において戦意を欠いたのでは、当然結果もついてこない。勝ちにこだわらないとはいっても、迷うときにはせめて結果で自分を慰めたいもので。
どうもつまらない。
しばらくやめてみればいいのか、それにしても何でかな。
もう6~7年も、こんなに面白いものはないと思ってきたのに。
*****
教会に戻ると、ケニアから母娘で里帰り中のKKさんが久しぶりに来ていて、顔を見るなり
「あ、ホンモノが来た!」
次男の話しぶりが父親そっくりだというので、皆でさんざん話題にしていたのだと。
そうかね~、そうですかね、お互いに口ごもるよな。
着席、何とはなしに聖書をめくる。
旧約、出エジプト記から民数記あたり、イスラエルによるカナン諸民族の殲滅の記録が続く。酸鼻の極み。
新約を通して旧約をみるということがなかったら、とても聖典として読めたものではない。
現実にイスラエルがパレスチナで行っている蛮行のモデルのようなものだ。
民数記31章8節、一身を賭して神の言葉を伝え、イスラエルに祝福を贈ったベオルの子バラム、
彼がなぜ敵対者とともに滅ぼされるのか、
わからないことがまた増える。
賛美歌は211、先日も話題にしたメンデルスゾーン/ストウ夫人の「朝風静かに吹きて」
旧約は詩編121、「主は汝が出ずるをも入るをも守りたまわん」
どちらも慰めに満ちている。
*****
帰宅すると、福島は三春のAさんから荷物が届いている。
中からはAさん手製の三春人形の絵が三点、やはり手製の紙の額縁に入って。
かわいいな、さすがだな。
Aさんとは四半世紀の付き合い、彼女は患者として、僕は医者として、それぞれ駆け出しだった頃に出会ったのだ。明日、許可をもらって写真をアップしよう。
佐野陽子さんがジャガーを衝動買いした話をアップしておいて、
清々しい朝の空気の中を教会へ
教会学校の合同礼拝は午前9時開始、
9時10分に着けば、ちょうど次男が話し始めるところだろうと読んで、
もくろみ通り9時10分ぴったりに礼拝堂を見下ろす3階席に身を潜める。
何と次男の話はまさに終わろうとするところ、進行早すぎだろ!
声をあらためて結句を告げる、そこだけが耳に入ってきた。
「神様は必ず、一人一人にふさわしい役割を与えてくださる。
そして、役割を果たす力をも与えてくださる。だから大丈夫。」
子供たちに笑顔で語って説教を締めくくった。
うーん・・・
ただいま大学3年生、進路検討中の彼が、自分に言い聞かせる言葉でもあるんだな。
しかし、育ったもんだ。
彼は、父の言葉を子どもたちに伝えている。
僕の、ではない、大文字の「父」の言葉だ。
伝える作業を、彼に教えるのは僕の「役割」だったが、彼は既にそれを自分自身の作業にしている。
とすれば、僕の仕事はこの括りではめでたく終わったのだ。
あとは彼が「父」とともに進めていく。僕には僕の作業がある。
「わが事、成れり」あるいは単に「成れり τετελεσται」
ヨハネ福音書の伝える、イエスの最後の言葉だ。
何が「成った」のか。明示されていないところが心憎く、発見が読者にゆだねられている。
その自由を活用してひとつあげるなら、
「父」と子らの接続を回復し、「父」の言葉をあらためて子らの内に置く、そのことではなかったか。
いま、まさしく τετελεσται・・・
*****
何となく皆に見つかりたくなくて、「おとなの」礼拝までの空き時間をY住区の図書館で過ごす。
快適な良い空間だ。
漫画を読んでいる少年が素っ頓狂な笑い声を立てる以外は、みな黙々と自分の作業に集中し、あるいは思いに耽っている。良い空間だ。
僕はなぜだか、碁がつまらなくなっている。信じられないことだけれど。
もともと勝ち負けにこだわるつもりはなく、ただ、ある水準までは上達したいと思っていた。
「古今の棋譜を並べて鑑賞できるほどの水準」までだ。
妙手の妙手たる所以を理解し、棋譜から対局者の心理の機微が読み取れたら、どんなに楽しいか。
それには自分自身がある程度打てなければダメなので。
もうひとつ、打つ以上は自分の打ちたい流れで打てるように。
相手があることとはいえ、勝負にこだわらないなら「一貫して自分のスタイルで打つ」ことはヘボでもできるはずだ。形を崩さずきれいに打つこと、石を捨てて外に回ること、のびのびと攻撃的に打つこと・・・
どちらも、何もできていない。
今の日本の標準ならアマ4~5段は称して良いのだろうから(海外は概してもっと厳しいという、逆みたいだね)、その意味で不足は言えない。
でも、まだまだ名局の鑑賞などはできそうにもなく、対局ではどう打てば自分らしい碁になるのか、皆目わからなくなっている。不全感をもって望むから当然戦意はあがらず、「盤上の格闘技」において戦意を欠いたのでは、当然結果もついてこない。勝ちにこだわらないとはいっても、迷うときにはせめて結果で自分を慰めたいもので。
どうもつまらない。
しばらくやめてみればいいのか、それにしても何でかな。
もう6~7年も、こんなに面白いものはないと思ってきたのに。
*****
教会に戻ると、ケニアから母娘で里帰り中のKKさんが久しぶりに来ていて、顔を見るなり
「あ、ホンモノが来た!」
次男の話しぶりが父親そっくりだというので、皆でさんざん話題にしていたのだと。
そうかね~、そうですかね、お互いに口ごもるよな。
着席、何とはなしに聖書をめくる。
旧約、出エジプト記から民数記あたり、イスラエルによるカナン諸民族の殲滅の記録が続く。酸鼻の極み。
新約を通して旧約をみるということがなかったら、とても聖典として読めたものではない。
現実にイスラエルがパレスチナで行っている蛮行のモデルのようなものだ。
民数記31章8節、一身を賭して神の言葉を伝え、イスラエルに祝福を贈ったベオルの子バラム、
彼がなぜ敵対者とともに滅ぼされるのか、
わからないことがまた増える。
賛美歌は211、先日も話題にしたメンデルスゾーン/ストウ夫人の「朝風静かに吹きて」
旧約は詩編121、「主は汝が出ずるをも入るをも守りたまわん」
どちらも慰めに満ちている。
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帰宅すると、福島は三春のAさんから荷物が届いている。
中からはAさん手製の三春人形の絵が三点、やはり手製の紙の額縁に入って。
かわいいな、さすがだな。
Aさんとは四半世紀の付き合い、彼女は患者として、僕は医者として、それぞれ駆け出しだった頃に出会ったのだ。明日、許可をもらって写真をアップしよう。