2013年8月4日(日)
朝のラジオで、芥川賞受賞作家へのインタビューあり。
藤野可織『爪と目』、書店に山積み、サイン会の広告も出ていたっけ。
中で主人公が亡母の綴っていたブログに出会う場面があり、「ブログは時間を編集する」という表現が用いられているんだそうだ。
なるほどなあ・・・
洗練度の高い「作品」としての提示もできるし、そういうブログも多いのだろう。そちらが本線かな。
良いものがずいぶんあるんだろう。
当ブログは取り散らかしの雑記帳で、恥ずかしいことである。
恥ずかしくはあるが、なるべく未編集で素材を書き留めておこう。
この作品で何を描きたかったかと、定番の無茶な質問も想定内と見えて、
「傷つかない力」を中心にきれいに答えをまとめた。
なるほど・・・
この作家のスタンスは分からないが、ある確かな社会の流れを直感的に(?)つかんでいるようにも想像される。いかに傷ついたかという話なら、飽きるほど聞かされてきた。
朝刊一面には、世界で初めて原爆症と診断された女性のこと。
広島で被爆の後、東京の実家に急帰したが8月24日に亡くなった。
その幻のカルテの一部が発見されたとある。
トラウマだって?
原爆を知ってから口にしようや。
今、はやっている小説を読めないのは、昔からのクセみたいなものだが、たまには読んでみようかな。
*****
何時の頃からか、頼みもしないのにタダで送られてくるようになった「H社の本棚」
そこに小池昌代という作家が『山姥(やまんば)の辞書』なるエッセイを連載している。
最新のものを、転記させていただく。
この著者も大した人だが、佐野洋子さんの逸話もすごい。
女性たち、すごいな。
*****
十 「咲く」
梅雨に入ったのだろうか。灰色の雲が重たい日。駅前の花屋を通りかかると「芍薬祭」をやっていた。五本で千円。花を買うことなど、普段、めったにないが、ハンサムなお兄さんに、「白、ピンク、濃い桃色」と気分よく指図して、三種とりまぜ、衝動買い。
「蕾は混ぜますか?」
「混ぜてください」。
衝動買いは楽しい。身銭というが、それを切るとき、本当に刃物で薄く傷付けられた気がする。人にごちそうしてもらったり、タダで何かを見たり味わったりしても、こういうふうには傷つかない。傷を負わないのは、もちろんありがたいが、身銭を切るときの痛い感じ、あれこそは生きる実感である。
身を張って仕事をし、それで得た金をぱっと使う。プラスマイナスゼロになるという感覚は、日常における爆発であり、それは小さな「死」に似ている。
佐野洋子さんは、癌とわかって余命を知らされたとき、ジャガーを衝動買いしたそうだ。ジャガーと芍薬。スケールが違いすぎる。が、わたしには、佐野さんの心が分かる気がする。芍薬を買うとき、わたしは日常の「崖」を、ひょいと飛び降りるような気分だった。
花を買う。何の理由もなく花を買う。買ったとき混ぜてもらった蕾は、なんと、一夜にして、すべて開いた。あきれるほど、華やかな花。その鮮やかさが心に映り、わたしの心が咲ききったかのようだ。
芍薬を、これほど美しいと思ったことはない。わたしは驚いていた。自分の飢餓感に。「まことの花」とはこのように、心に照り映えた花のことか。若くない今だからこそ、芍薬の魂そのものに同化できるのだろう。
二十年くらい前、わたしは祖母が最後に入院していた病院へ、芍薬の花をどっさり持っていった。紫紅色ばかり。二十本ほどもあっただろうか。祖母は花を見て、「わあ」と驚きの声をあげた。
日頃、宝飾品を身につけるようなこともない、とても質素な祖母だったが、化粧を落とした、その末期の横顔は、鼻筋高く、額は秀で、わたしの目には麗人に見えた。
お医者様のなかに、お気に入りの男性がいて、診てもらうとき、ドキドキすると言っていたらしい。老女にすぎない祖母の心臓にも、芍薬のような魂が咲いていたのだ。
黒っぽい、地味な洋服ばかり着るわたしに、お願いだから、ぱーっと華やかなものを着なさい、お金あげるから、おしゃれをしなさい、と言った。
わたしも今、同じことをよく、人に思う。だけど、本当に、色物を着こなせるのは、むしろ白髪が生えてきてからじゃないか。
若い頃、わたしはピンク色が大嫌いだったが、いよいよ、これからだ、この色を着るのは。いつか、銀髪にショッキングピンクのシャツを着て、街を歩いてみたいのである。
ああ、芍薬の花。百本欲しい。
朝のラジオで、芥川賞受賞作家へのインタビューあり。
藤野可織『爪と目』、書店に山積み、サイン会の広告も出ていたっけ。
中で主人公が亡母の綴っていたブログに出会う場面があり、「ブログは時間を編集する」という表現が用いられているんだそうだ。
なるほどなあ・・・
洗練度の高い「作品」としての提示もできるし、そういうブログも多いのだろう。そちらが本線かな。
良いものがずいぶんあるんだろう。
当ブログは取り散らかしの雑記帳で、恥ずかしいことである。
恥ずかしくはあるが、なるべく未編集で素材を書き留めておこう。
この作品で何を描きたかったかと、定番の無茶な質問も想定内と見えて、
「傷つかない力」を中心にきれいに答えをまとめた。
なるほど・・・
この作家のスタンスは分からないが、ある確かな社会の流れを直感的に(?)つかんでいるようにも想像される。いかに傷ついたかという話なら、飽きるほど聞かされてきた。
朝刊一面には、世界で初めて原爆症と診断された女性のこと。
広島で被爆の後、東京の実家に急帰したが8月24日に亡くなった。
その幻のカルテの一部が発見されたとある。
トラウマだって?
原爆を知ってから口にしようや。
今、はやっている小説を読めないのは、昔からのクセみたいなものだが、たまには読んでみようかな。
*****
何時の頃からか、頼みもしないのにタダで送られてくるようになった「H社の本棚」
そこに小池昌代という作家が『山姥(やまんば)の辞書』なるエッセイを連載している。
最新のものを、転記させていただく。
この著者も大した人だが、佐野洋子さんの逸話もすごい。
女性たち、すごいな。
*****
十 「咲く」
梅雨に入ったのだろうか。灰色の雲が重たい日。駅前の花屋を通りかかると「芍薬祭」をやっていた。五本で千円。花を買うことなど、普段、めったにないが、ハンサムなお兄さんに、「白、ピンク、濃い桃色」と気分よく指図して、三種とりまぜ、衝動買い。
「蕾は混ぜますか?」
「混ぜてください」。
衝動買いは楽しい。身銭というが、それを切るとき、本当に刃物で薄く傷付けられた気がする。人にごちそうしてもらったり、タダで何かを見たり味わったりしても、こういうふうには傷つかない。傷を負わないのは、もちろんありがたいが、身銭を切るときの痛い感じ、あれこそは生きる実感である。
身を張って仕事をし、それで得た金をぱっと使う。プラスマイナスゼロになるという感覚は、日常における爆発であり、それは小さな「死」に似ている。
佐野洋子さんは、癌とわかって余命を知らされたとき、ジャガーを衝動買いしたそうだ。ジャガーと芍薬。スケールが違いすぎる。が、わたしには、佐野さんの心が分かる気がする。芍薬を買うとき、わたしは日常の「崖」を、ひょいと飛び降りるような気分だった。
花を買う。何の理由もなく花を買う。買ったとき混ぜてもらった蕾は、なんと、一夜にして、すべて開いた。あきれるほど、華やかな花。その鮮やかさが心に映り、わたしの心が咲ききったかのようだ。
芍薬を、これほど美しいと思ったことはない。わたしは驚いていた。自分の飢餓感に。「まことの花」とはこのように、心に照り映えた花のことか。若くない今だからこそ、芍薬の魂そのものに同化できるのだろう。
二十年くらい前、わたしは祖母が最後に入院していた病院へ、芍薬の花をどっさり持っていった。紫紅色ばかり。二十本ほどもあっただろうか。祖母は花を見て、「わあ」と驚きの声をあげた。
日頃、宝飾品を身につけるようなこともない、とても質素な祖母だったが、化粧を落とした、その末期の横顔は、鼻筋高く、額は秀で、わたしの目には麗人に見えた。
お医者様のなかに、お気に入りの男性がいて、診てもらうとき、ドキドキすると言っていたらしい。老女にすぎない祖母の心臓にも、芍薬のような魂が咲いていたのだ。
黒っぽい、地味な洋服ばかり着るわたしに、お願いだから、ぱーっと華やかなものを着なさい、お金あげるから、おしゃれをしなさい、と言った。
わたしも今、同じことをよく、人に思う。だけど、本当に、色物を着こなせるのは、むしろ白髪が生えてきてからじゃないか。
若い頃、わたしはピンク色が大嫌いだったが、いよいよ、これからだ、この色を着るのは。いつか、銀髪にショッキングピンクのシャツを着て、街を歩いてみたいのである。
ああ、芍薬の花。百本欲しい。
そこまで考えてコメントしてたのだとしたらすごい人です。