2015年7月17日(金)
『法学入門』は30件の判例をおさめたもので、これがテーマ別に配列され、解説や演習問題が付されている。判例を学ぶのは碁で言えば棋譜を並べるようなもので、この道に上達する王道であり、いちばん賢いやり方でもあっただろう。そして、著者である米倉明先生自身が学生たちに質問しながら分かりやすく進める授業だったから、もう少し(あるいは大いに)楽しめて良かったはずだ。それがあれほど苦痛だったのは・・・なぜなんだろう?
ちょうど40年ぶりに本棚から取り出した一冊を、あらためて読んでみようかとも思う。棋譜並べの他、精神医学のケースブックを読むことにも似ている。そう、苦痛だったのは法学というよりも、あの教室の雰囲気と、そこを埋める人間集団に対する違和感だった。それを「本末」の「末」として流すことができなかったのが、自分の側の問題だった。それは後にするとして。
クマ号事件は30件の判例の冒頭に置かれていて、「損害賠償」について考え理解する基本例題として米倉先生が選んだものと思われる。隣り合った二件の家に大小の犬が飼われており、小さなマルは鎖に繫がれていたのに、大きなクマは繫がれていなかった。そのクマが隣家に侵入してマルを咬んでケガをさせたのだから、理非についてはほとんど論ずる余地がない。こじれたにはおそらく伏線があり、長年のわだかまりが素直に謝ることを難しくしたか、一方あるいは双方にパーソナリティの問題があったか、その両方か・・・そちらに関心が行くのが精神科医の発想、というより多くの人々の自然なおもむきではないかしらん。
ただ、この単純な事件にも丁寧に見ていけば論点はいろいろある。たとえばX(原告)側は夫人Aの高血圧や心疾患についても、この件との関連を主張している。「それはやり過ぎでしょ」と直感するけれども、資料を読むと実は子細がある。事件の起きたのは2月5日だが、2月8日にこの件で交渉中、Y(被告)は「(マルが)そんなに重傷なら殺してしまえ」等の暴言を吐き、そのショックでAの血圧が跳ね上がったというのである。これではYに責任がないとも言えなかろう。で、裁判所はその部分に関して「5,000円」(当時)という評価を下したわけである。
文科一類の定員はその頃630人だったので、この入門授業もたぶん3クラスほどに分かれて行っているはずである。それでも200人以上いたことになるか。米倉先生はいったん官界に入ってから大学に戻ってこられた異色の経歴で、ある種ざっくばらんな空気が教室にあったのも、お人柄ゆえだったかもしれない。そうした中、名簿順に当てられるのを待たず、教室の左後方から挙手した学生があった。がっちりと肉付きが良くて目鼻立ちの大きな、やや長髪の男子である。その彼が言ったのだ。
「被害犬は柴犬、つまり小型犬であるのに対して、加害犬は図から見ても大型犬であったと察せられます。そうであるなら、より大きな危険を運用する者に、より大きな責任が発生すると解すべきですから、その点も本件の判決にあたって考量する必要があると思います。」
いくぶんか地方訛りがあっただろうか。しかし、これを聞いて教室を埋めた学生が皆いっせいに笑ったのは、嘲笑などではない。逆に彼の論旨があまりに堂々として筋が通り、それを犬の大小という設定に型どおり適用したところが、一種ユーモラスだったからである。僕も反射的に笑い、しかし笑って済ますことができずに発言者の様子をまじまじと見ていた。そして講壇をふりかえると、米倉先生は少しも笑わず、至極真剣な表情で頷いておられる。
この時に学んだのだ。
より大きな危険を運用する者に、より大きな責任が発生する。
社会というものを動かす、超基本公理のひとつである。
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(少しだけ続く)