散日拾遺

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光と影/求古尋論 散慮逍遙 ~ 千字文 093

2014-08-12 09:15:51 | 日記
2014年8月12日(火)
 書き忘れていた。
 笹井氏の報に触れ、ついつい山中氏と対比したくなる。それは人情として致し方ないところで、事実、笹井氏もまた(あるいは笹井氏こそ)ノーベル賞を期待されて不思議のない才能と業績を備えていた。そのような期待と自負、そして山中氏とのライバルシップが、悲劇の背景になったことは想像に難くない。
 円谷と君原、書き忘れていたというのは、その連想である。詳しくは以前にあらまし論じた。

 一対の人間の一方が光、他方が影になるのは、悲しいことだ。
 光と影は、一個の人間の中の葛藤として抱えるのでありたい。光と影をこもごも抱えて輝き続けるのが、人の統合性であり人の幸せである。
 それこそ『ゲド戦記』のテーマ。『影をなくした男』と関連づけることも、たぶんできる。

***

○ 求古尋論 散慮逍遙
 求古は「古(いにしえ)の道」を求む、尋論は「賢人の論」を尋ねる。

 散慮は「心のうさ、わだかまりを晴らす」の意だそうだ。
 「慮」は「配慮」とか「深謀遠慮」とか、良い意味での思慮を連想させるからやや意外だが、「被害念慮」とか「希死念慮」とかいうときの「念慮」は「うさ、わだかまり」と解すると腑に落ちる。
 おそらく明治時代であろう、ドイツ語の Idee を「念慮」と訳した先人は、このニュアンスを十分承知していたのである。

 逍遙は「のびのびと満足する様子」「のびのびと足の赴くままぶらつくさま」とある。これは後者しか知らなかった。

 李注はこの節を隠居後の悠々自適に関連づけ、引き続き疏広・疏受の文脈のうちに置いている。しかし、隠居前にこういう境地を楽しむのがいけないという理屈でもなかろう。
 松山は曇天、時に小雨混じりで、しのぎやすいが作業には向かない午前である。「求古尋論/散慮逍遙」には都合のよい陽気だ。

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