散日拾遺

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「羽交い」という言葉 / 外国出身者に教わる日本語の美しさ

2017-06-23 06:10:39 | 日記

2017年6月22日(木)

 日曜午後の「日本の話芸」を予約録画しておいて、楽しみに見ている。18日の放映は桂南光の『抜け雀』、小田原の宿屋が舞台だが、旅人はいかめしい侍言葉、亭主とおかみさんは関西弁でのかけあいが秀逸。『ぼちぼちいこか』の翻訳ではないが、関西弁(というかコテコテの大阪弁)を機能的に用いるのが面白い。流れるような話芸に何度でも引き込まれる。

 話の後半、人品卑しからぬ老人が宿を訪れ雀の絵を見たいと請い、これでは雀がほどなく死んでしまうと指摘して縦横に数筆、書き加える。これは何ですかと亭主の問に、雀が止まる枝であると説明する場面、

 「これで雀らは、ハガイを休めることができる」

 身振りを添えて老絵師の言葉が南光師匠の口から出る時、「ハガイ」という部分がするっと白抜けに聞こえた。自分の語彙にない言葉を聞いたときの、例の反応である。ややあって「ハガイ締め」の「ハガイ」かと思い至り、辞書で確認。

【羽交い】

① 鳥の左右の羽の、畳んだときに重なる部分。「葦辺行く鴨の - に霜降りて」(万64)

② はね。つばさ。「片 - を射切って」(太平記 16)

「羽交いの下」 年長者や権力者に庇護されていること。「 - の温め鳥」(浄・百合若大臣)

(大辞林 第三版)

***

 なるほどそれで。南光師匠の語る老絵師の身振りは、翼に見立てた片袖をそっと空いた手でいたわる具合、「羽交い」とは麗しい言葉ではないか。

 ことのついでに出典確認。

○ 葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ (万葉集 巻一 64)

 『太平記』は、そうだそのうち読んでみよう。浄瑠璃の『百合若大臣』は元寇を背景とした英雄復讐譚で、ホメロスのオデュセイアとの類似が指摘されるという。それは無茶でしょうと一瞬笑ったが、ストーリーを知ればなるほど見事に酷似しており、主人公の「ゆりわか」という名がオデュセウスのラテン語名「ユリシーズ」と重なるところまで、弁ずる材料に事欠かない。坪内逍遙が早稲田文学紙上で南蛮渡来説を真剣に主張したといい、他方でペネロープ型説話(ペネロペはオデュセウスの帰還を信じて待つ貞節な妻の名)はユーラシア全域に前史時代から広まっていたともいわれ、いずれにせよ想像するに楽しいことである。イザナギの黄泉の国詣とオルフェウス伝説の類似なども思い出される。

***

 先週の木曜日に畏友・櫟原利明君らとチャンコ屋さんに出かける機会あり。その折りに外国力士らの日本語の見事なことに話が及んだ。とりわけ旭天鵬のテレビ解説は日本語が正確なうえ、表現が的確で美しい。背後に豊かで温かい人柄があり、それが自然に言葉という形をとるのだろうと異口同音。鶴竜の「時が(時間が?時計が?)動き出した」という例のフレーズも、詩的センスを含んですばらしい等々。

 この種の話になると、僕はいつも日本棋院マイケル・レドモンド九段のTV解説のことを思う。これがまた正確な日本語であるうえ、砕けた言葉まで含めて語彙が豊富、そのうえ英語圏の育ちらしく構音・構語がしっかりしているので(今でもアメリカの高校・大学では、しばしば詩の朗読の機会がある)、聞く耳に心地よい。日本語はこんなに美しく語れるものかと毎度聞き惚れている。日本語は曖昧な言語だなどというのも嘘の骨頂、使い手の心がけ一つで望み次第に明晰に語れること、実証ずみである。

 日本語は我々が考える以上に豊かで美しい。それをダメにしている犯人は、他ならぬわれわれ日本人である。

Ω

 


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