2021年6月23日(水)
つまりそういう次第で、悪は与しやすく善は甚だ遠い。仕方がないので、自分の悪が下火になっていることをもって、さしあたり善の代わりに繕っておく。人は知らず、自分はそうだ。
以前にも書いただろうか、「ジキルとハイド」のテーマを「善と悪の相克」だと言ったら、読んでいないことがたちどころにバレる。スティヴンソンの原作の中でハイド氏はまぎれもない悪人だが、ジキル博士はとりたてて善なる人ではなく、良識ある一般市民という程度のものである。それを対比したのがスティヴンソンの炯眼というものだ。
「あれであいつは、決して悪いやつではない」などというのは何も言ってないのと同じだと、これは高校時代の超悪友Rの警句の一つだったが、思い返せば仰せの通り。とりたてて悪人ではない者が、状況次第で盗人にも人殺しにも化けるのが、人なるものの標準形である。決して化けない非悪の人は既に善の大家だが、誰がそうなのかはその時が来てみないとわからない。
「大きな悪は姑息な善に勝る」というのもRの託宣の一つだった。大きな悪は大きな善に転化する可能性をもつが、姑息な善はいつまでたっても姑息なままで役には立たぬという趣旨だったろうか。寝言を言ってる間に、気づけば周りは姑息なのやら大きなのやら、内も外も悪だらけの真っ黒けである。
善とは何か。ピラトは「真理とは何か」と言ったのだが、善と言い換えてもたぶん大きくは違わない。イエスを極刑から救おうと彼なりに努めたピラトは、決して悪いやつではない。
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