2020年6月26日(金)
【暦の警句】
「ハンス・マイヤーは徹頭徹尾、人にうしろ指を差されるような人ではありませんでした。どうして射殺されたのか皆目見当がつきません」
「うしろ指を差されるような人ではないのか」マッティンガーは目の前で手を横に振った。
「めったにお目にかかれるものではない。わたしは六十四歳になるが、この年になるまでに、そういう人物にはふたりしか会ったことがない。ひとりは十年前に死んだ。もうひとりはフランス人修道士。わたしのいうことを信じたまえ、ライネン弁護士。人間に白も黒もない……灰色なものさ」
「まるで暦にある警句みたいですね」ライネンはいった。
マッティンガーは笑った。
「年を重ねると、暦の警句はますます真実味を増してくるものだ」
フォン・シーラッハ/酒寄進一(訳)『コリーニ事件』創元推理文庫版 P.70
【離人体験】
フィリップのときと同じように、ヨハナのことも失うようで、ライネンは不安だった。突然、彼の周囲が淀んだ。ベンチ、床、人間。音まで響きがにぶくなり、遠くから聞こえてくるようだった。光もいつもとちがっていた。キャリーバッグを引いた若い娘がぶつかってきたが、ライネンはよけることができなかった。彼は十分近く空港のコンコースに立ち尽くした。自分の姿が見える。縁もゆかりもない他人のように。
ライネンは両手を合わせ、指の形や大きさを思いだそうとした。ゆっくりと自分を取りもどした。トイレに寄ると、顔を洗い、自分が自分であるとしっかり感じられるようになるまでしばらく鏡をのぞきつづけた。
同上、P.112
【アイロンの使い方】
書斎には、カーテンの隙間から一筋、日の光が射し、その太い筋がデスクにかかっていた。ハンス・マイヤーは毎日ここで新聞を読んでいた。新聞はいつも調理場でアイロンがけされることになっていた。インクを紙にしっかりしみつけ、手を黒く染めないようにするためだ。
同上、P.92-3
昨日、久しぶりに書店に寄り、『コリーニ事件』と『禁忌』を購った。帰りの電車の中で前者を読み始め、今日クリニックへの往復の間に読み終えた。文学作品としてどうかということよりも、扱われている内容と扱い方、そしてこの作品がドイツ一国の法制度に与えた現実の影響力が重要であろう。
現代史の教材として、また司法制度が社会の中で生きた働きをする国が存在することの例証として、学生から一般に至るまで広く読まれて欲しい、まことに衝撃的な作品である。
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