2020年4月1日(水)
去年の5月22日以来10ヶ月余も中断していたのを、おもむろに再開する。ジタバタしても仕方がないし、ちょうど先月の誕生日にこんなものを贈られたことでもある。
著者・犬飼孝氏(1907-98)について知らなかったのは、万葉ファンとして申し訳がない。Wiki から「人物」欄を転記しておく。
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万葉集に登場する万葉故地をすべて訪れ、万葉集研究に生涯をささげ「万葉風土学」を確立。また、テレビ・ラジオ番組や公演などで多数の人に万葉集をひろめた。万葉歌に旋律をつけて朗唱する「犬養節」は独自の歌い方で、おおくの万葉ファンに親しまれた。
万葉の景観をまもるため、万葉故地が乱開発される現状に抗議し、国会議員や松下幸之助などの財界人にも万葉故地の重要性をうったえた。その一環として、日本全国の万葉故地に所縁の万葉歌を揮毫した「万葉歌碑」を建立、故地をまもる活動に奔走した。定例の万葉ハイキングや月見の会をかさね、明日香古都保存に尽力し、明日香村名誉村民となる。
1979年(昭和54年)に昭和天皇が明日香に行幸し、甘樫丘にて明日香の歴史的風土を視察したときの案内役をつとめる。1951年(昭和26年)に始まった「大阪大学万葉旅行」は45年間の参加者延べ4万人をこえた。2000年には奈良県明日香村に犬養を顕彰し関係資料を展示する「犬養万葉記念館」が完成した。
犬養揮毫の万葉歌碑は131基におよぶ。墓は養子(実の甥)によってまもられている。
明日香村の「犬養万葉記念館」
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さて、歌である。
【麻続王(おみのおおきみ)の伊勢国伊良虞(いらご)島に流さえし時、人の哀傷して作れる歌】
打麻(うちそ)を麻続王 白水郎(あま)なれや 伊良虞が島の玉藻刈ります [巻1・23]
【麻続王、聞きて感傷(いた)みて和(こた)ふる歌】
うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食(を)す [巻1・24]
「麻続王が伊勢の伊良虞に流された時、時の人が、「うちそを麻続の王 海人なれや 伊良湖が島の玉藻刈ります」(巻1・23)といって悲しんだ。「海人なれや」は疑問で、「海人だからであろうか」という意になる。この歌はそれに感傷して和えられた歌である。自分は命を愛惜してこのように海浪に濡れつつ伊良虞島の玉藻を苅って食べているというのである。流人でも高貴の方だから実際に海人のような業をせられないが、前の歌に「玉藻苅ります」といったから、「玉藻苅り食す」と言われたのである。」
「この一種はあわれ深いひびきを持ち、特に、「うつせみの命ををしみ」の句に感慨の主点がある。万葉の歌には、「わたつみの豊旗雲に」の如き歌もあるが、またこういう切実な感傷の歌もある。悲しい声であるから、堂々とせずにヲシミ・ナミニヌレのあたりは、稍(やや)小きざみになっている。」
(p.30-31)
麻続王の配流先について、伊勢・因幡・常陸など諸説あることを茂吉先生が紹介しておられる。ただし伊勢といっても現在の三重県ではなく、渥美半島先端の伊良湖岬であるという。律令制による国の地図では渥美半島全体が三河に区分されており、一瞬首を傾げるが不思議でもない。
半島の先端/西端に位置する伊良湖岬(往古は島だったのだろう)は海を隔てて伊勢国から指呼の間にあり、東端の神島からはわずか4-5kmである。古代人の遠近法において海路が重要であったことは、房総半島の先端が上総で付け根が下総であることからもわかる通りだから、伊良虞島が伊勢と呼ばれたのも頷ける。実際、配流にあたっては伊勢から海路を辿ったのだろうし、そのような「離れ小島」であるからこそ流刑地に選ばれたのであろう。
それより大きな謎は、麻続王と呼ばれる人物の正体が、7世紀末の皇族という以外に皆目わからないことである。
「出自をめぐって大友皇子、美努王(橘諸兄の父)、柿本人麻呂など諸説ある。また、年代的に無理があるが聖武天皇の別名ともいわれる」(Wikipedia)というのでは雲をつかむような話である。わかっているのは、天武帝によってこの人物と息子たちが流刑に処せられたという記録だけだ。
もっぱら万葉のこの一首によって、麻続王の名は長く伝えられることになった。
伊良湖岬(Wikipediaより拝借)
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