香川の山崎先生のことを語った勢いで、岩手の齋藤先生の思い出を書き留めておく。
岩手SCの面接授業は、昨2012年の6月下旬だった。
梅雨時には北へ逃げるに限ると考えてのことで、その涼しさはよく記憶している。
というのも、
いつもながらのうっかりで宿を取るのがギリギリになり、駅からも学習センターからも遠いホテルしか取れず、北上川を越え商店街を抜けて30分以上歩くハメになった。夜も10時を過ぎて、涼しいというより寒いのである。
石川啄木の銅像の向かい側あたりで、長身の女の子が居酒屋か何かの呼びこみをやっている。
肩も露わに腿の付け根まで向き出しの肌が、頬も手も足も東北人らしく真っ白で、見ているこちらはいよいよ寒くなった。
しかし若いとは大したもので、元気な笑顔に震えやかじかみの気配もない。
この子には、何かもっと別の仕事をさせてみたい気がしたのが、涼しさの記憶という次第。
*****
齋藤先生は秋田の出身、仙台の東北大で学び、その後は岩手大学で定年まで奉職された。
東北コスモポリタンというところ。
「いわてだいがく」というとホテルのフロントが良く分からない顔をし、後の話も何だかヘンだと思ったら、岩手医科大学と混同している。
「がんだい」と言わなければ地元ではかえって通じない。その岩大である。
御専門は、もともと地熱発電だったのだそうだが、岩大に移ってからは災害予知に焦点を移した。
なぜかというと、
地熱発電の立地等を見当する基礎資料として、まずは地下の熱の分布を調べることが必要になる。このデータが、火山の噴火予知にあたって不可欠の資料となるのだ。
そして齋藤先生が東北大から岩大に移るのを待っていたかのように、岩手山が不穏の徴候を示し始めた。
岩手山は盛岡市北西20kmに位置する。
東北の広い空の下で高さを見失うが、標高2038mは岩手県最高峰だ。
「いわて」を「言わで」にかけて、古来よく歌に詠まれたとある。
知られじな 絶えず心に かかるとも 岩手の山の 峰の白雪 (続古今和歌集)
みやこ人が我が目で岩手山を見る機会も滅多になかったろうに、イメージの飛ぶことはまさに一瀉千里。
啄木が「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」と詠じたのも、この山だ。
岩手山は二つの外輪山からなる複成火山で、wiki 等によれば以下のような噴火履歴をもつ。
1686年(貞享3年)噴火 ・・・ 生類憐れみの令の前年だ。
1731年(享保16年)噴火 ・・・ 現在の八幡平市で住民が避難。この時、北東山麓(八幡平に面した側)に形成された溶岩流が「焼走り熔岩流」として国の特別天然記念になっている。同じ年、徳川吉宗治下の江戸では大火が起きた。
下って1919年(大正8年)にも小噴火(水蒸気爆発)
そして1998年から2003年にかけて火山性地震と地殻変動が持続したとある、この時期に齋藤先生が岩大に来られたのである。
岩大在任中、齋藤先生の関心と注意は常に岩手山に向けられていた。
いかに正確に噴火を予知するか、
いったん噴火の際には、いかに小さく被害を抑えるか、
噴火は時間の問題と思われたので神経の休まる暇がなく、不眠をきたして医者に薬を処方してもらったこともあるという。
幸いにして、と言うべきかどうか、齋藤先生は噴火を見ることなく定年を迎えられた。
けれども営々と蓄積されたデータと工夫は無駄にされることがなく、放送大学の学習センター長に迎えられた後も、ことあるごとに講義・講演で防災の勧めを語られた。
2010年の秋からはシリーズで講演、2011年3月6日の日曜日には「津波」をテーマに話された。
その5日後、震災が起きた。
*****
齋藤先生の語られたことから、二つ書き留めておく。
まず、「想定外」について。
三陸地方の人々にとって、津波は「必ずやってくるもの」であった。
今回、宮古市で確認された津波遡上高は39.7m、確かに記録に残るものとして最大である。
ただし、
30mクラスの津波は決して珍しくはない。
近い過去を見ただけでも
1896年(明治29年)明治三陸地震津波
1933年(昭和8年)昭和三陸地震津波
1960年(昭和35年)チリ津波
過去115年間に三度、つまり約40年に一回はこのクラスの津波が襲ってくるものと想定せねばならない。
しかるに、東電原発の想定津波高はわずかに5.7mであった。
そのことが、齋藤先生のような防災関係者にまったく知らされていなかった。
「想定」とは根拠のない楽観のことか、それを超える事態は「想定外」なのか、
これについては、ぜひ齋藤先生御自身の書かれたものを見てほしい。
*****
もうひとつ、これは書かれたことではない、語られたことである。
「先生、しかし・・・」と思いつきを口にしてみた。
「原発がこうなった今、先生の本来の御専門である地熱発電は、あらためて脚光を浴びるのではないですか?」
先生は複雑な表情をなさった。
「国策として原発が推進されるようになって以来、地熱発電には研究費が付かなくなりました。金がなくては研究できないから日本の地熱発電研究は事実上中断し、大きな空白ができてしまったんです。今から再開するとしても、まずはその空白を埋めるところからやり直しです。それに、今さら地熱をやれと言われてもね・・・」
先日、高松の風景を見て、なぜ塩田を一部でも残しておかないのかと考えたとき、思い出したのはこのことだったのだ。
ある方向へ主力を傾注するのは良い。
しかし、なぜそれ以外のものを、一切合切やめてしまわなければならないのか。
それらを二度と取り戻せなくなることのコストとリスクを、後世に追わせて良いのか。
震災直後に原発廃止論が一時的な盛り上がりを見せたとき、僕自身は「全廃せず、一部は残すのがよい」と考えた。
原発のリスクをチェックし、より安全な運用の仕方を検討するためにも、実験的に少数は残しておくのがよい、と。
もちろん、今になってみればこんな議論は空しいね。
原発はナシ崩しに主役の座に戻り、代替エネルギーは「今さら」も何も、見えてくる気配がない。
そして40年も経てば、津波はまたやってくる。
僕などは、それを見ることもないだろうが。
【追記】
放送大学では昨2012年に特別セッションを行い、報告書をまとめた。
インターネットから全文をダウンロードでき、その中に齋藤先生の報告も読むことができる。
http://www.ouj.ac.jp/hp/o_itiran/2013/250403_2.html