2015年9月28日(月)
数ある棋戦の中で竜星戦は独特の面白さがある。この方式は何というのかと思っていたが、調べてみると「パラマストーナメント」または「ステップラダー」方式というらしい。後者は stepladder だが前者の語源がわからない。何しろ、あらかじめ参加者を序列化しておく。最下位2者が戦って、勝者がすぐ上位の者に挑戦する。これを繰り返していくのである。下位序列者の負担が重いという意味では不公平なのだが、その代わり下位の好調者が上位者を次々に薙ぎ倒していくことが時々起き、これはなかなか圧巻である。
通常の棋戦は、予選を勝ち上がった者がリーグを構成して総当り戦を行う。王道と言えるやり方で実力者の碁をじっくり見られる良さがあるが、新進の若者がリーグに登場するには時間がかかってもどかしい。その点、ステップラダー方式では彗星のように現れた新鋭が、当代の一人者に挑戦することも可能になる。今年それを成し遂げた若手陣の筆頭は許家元、その勢いを辛くも止めたのが治勲さんだった。
ステップラダーで選ばれた8強が通常のトーナメントで優勝を競う。一方の枠からは許を抑えて治勲さん、他方の枠からは様子も棋風もダンディーな小林覚さんに競り勝って、結城聡九段が挙がってきた。その決勝が行われたはずで、これはさだめし熱戦となったに違いない。新木場のキオスクで週刊「碁」を買って開く手が期待に震える。ところが何ということ、記事を読んで呆然とした。手が震えたのはまったく別の理由だった。
「決勝の組み合わせは25世本因坊治勲 - 結城聡九段の顔合わせとなったが、決勝戦収録当日、夫人の危篤に付き添っていた治勲から不戦敗の申し出があった(翌日逝去)。テレビ棋戦の決勝戦で不戦敗が出るかもしれないという異例の事態を受けて、主催者・(株)囲碁将棋チャンネルと日本棋院、関西棋院が協議した結果、後日結城の不戦勝ということに決まった。」
治勲さんの奥さんがどんな方であったのか、情報は何一つもたない。けれども治勲さんが奥さんにベタ惚れの愛妻家であったことは、誰だって察しがつく。毎回の「お悩み天国」を読んでいれば分かることだ。あれがノロけでなくて何だろう。最近「お悩み天国」を見かけないし、かといって連載終了の告知もないと思ったら、こんな事情があったのか。しかし治勲さんは竜星戦を打ち続け、勝ち続けた。そしてその内容がすばらしく充実している。
ほんの数日前、碁はまるで分からない家内に向かって「治勲さんは偉い、すごい、最近の碁はとりわけ純粋で邪念がない」などと知った風なことを語ったところだった。地にカラく、相手の根拠を厳しく奪っていくのが長年の身上なのに、最近は二連星などから模様を張る布石をよく見かける。どんな布石でもいいらしい。ただ、攻めとシノギの集中力は往年に少しも劣らず、ますます溌剌としている。彼の人柄そのままに、石が熱を帯びて躍動するようだ。
決勝を見事制し、自身のもつ通算タイトル獲得数の記録を75に伸ばして、病床の奥さんを励ましたかったに違いない。けれどもそんなことは、奥さんを見守る一日のかけがえのなさに比べれば、何でもなかったのだ。かつて治勲さんは、自分の車に接触転倒したバイクを気遣い、車から降りたところを自分がはねられた。全身に多数の骨折を負い、それでも不思議に頭と右手が無事であったため、病院を抜け出して小林光一と番碁を打った。
勝負の鬼、優しい鬼、その胸中を察するに察しきれず、ただ我がことのように無念である。