2014年7月15日(火)
大河ドラマが本能寺の変に差し掛かり、いよいよ官兵衛の働きどころ。
中国大返しと山崎の合戦がドラマの表とすれば、この時わずかな供回りを連れて堺にあった家康が、鈴鹿の山中を突っ切って浜松へ逃げ伸びる道行はその裏である。途中で別れた穴山梅雪(武田信玄の実弟)は、落ち武者狩りにあって落命した。このあたりの人間模様はむやみに面白く、いつ見ても何度読んでも他愛なく夢中になる。演出や演技が少々ヘボでも紛れてしまう。が・・・
しかしですね、考証はきちんとありたいのだ。
安土城の饗応の場面で、信長が家康を「おぬし」呼ばわりし、家康が信長を「上様」と呼ぶ。口頭での呼び方を記録した資料もあるまいから、想像によって再現するしかないのだが、そういう時こそ歴史の理解や解釈が問われるわけで。
「おぬし」のぞんざいさはともかく、「上様」はおかしい。これは臣下が主君に対して用いる呼称だから、秀吉や勝家が信長を「上様」と呼ぶのは当然だが、家康は臣下ではない。政治的な影響力にかなりの格差があるとはいえ、曲がりなりにも対等の同盟者である。「上様」はあり得ない。
徳川は織田の東の備えとしてつらい役に耐えながら、あくまで独立の一家を主張し、そこに存在を賭けていた。そこは信長も重々承知で、武田攻めの慰労とその後の家康による歓待への答礼として安土で最高級にもてなし、その差配にしくじった光秀を面罵叱責した(一説には森蘭丸によって鉄扇で打たせた)ことが、本能寺の伏線にあったという。
「家康殿」に「信長様」あるいは「右府様」ぐらいのところで、「上様」はヘンなのだ。
ついでに言うなら、この手のドラマは大概「家康=狸親爺」説に囚われて、家康の描き方がいびつになっている。最悪は『天地人』だった。
忍耐と老獪は幼年期に人質生活を強いられた家康の身上だが、その全てではない。成人後の家康は、西上する今川の部将として先鋒をつとめたのを皮切りに、桶狭間の瓦解後は織田の忠実な同盟者として難戦の連続、信長が尾張の弱兵を工夫で強くしたのと対照的に、頑健精強な三河衆を率いて愚直に戦い続けた。そして強かった。
姉川では浅井勢を圧倒する傍ら、朝倉に崩されようとする織田軍の急を救った。三方原では戦国最強の武田勢に敢えて挑んで完敗したが、後で戦場を検分した信玄が「三河勢の遺骸に浜松へ頭を向けたものがない」と舌を巻いた。本能寺の変後は、日の出の勢いの秀吉と小牧・長久手に戦い、戦闘に勝って政略に負けた。
地味だが屈強の三河衆は、領国経営においても一種不思議なまとまりを示したらしい。
「「三河岡崎衆」という、この酷薄な乱世のなかではめずらしいほどに強固な主従関係、というよりもはや共同の情緒をもつ集団」
「この小集団の性格が、のちに徳川家の性格になり、その家が運のめぐりで天下をとり、三百年間日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになった」云々、
いずれも司馬遼太郎『覇王の家』が評するところである。
同書からもう一か所、
「家康は二十年ちかい歳月のあいだ、武田の大勢力に圧迫され続け、ときに滅亡の危機に瀕しながらもついに屈しなかったという履歴をもっている。さらに三方ケ原の戦いにあっては、移動中の武田軍に対し、百パーセント負けるという計算をもちながら、しかも挑戦し、惨敗した。この履歴は、家康という男の世間に対する印象を、一層重厚にした。秀吉が、二十四か国の覇者でありながら、わずか五か国のぬしである家康に対して一度も恫しの手を用いず、ひたすら懐柔につとめたのは、家康のそういう履歴を知りぬいていたからであった。」(新潮文庫 P.307-8)
せめてこれぐらいは読んでから、脚本書いてほしいかな。
悪役が薄っぺらいと、主人公がバカに見えるからね。
大河ドラマが本能寺の変に差し掛かり、いよいよ官兵衛の働きどころ。
中国大返しと山崎の合戦がドラマの表とすれば、この時わずかな供回りを連れて堺にあった家康が、鈴鹿の山中を突っ切って浜松へ逃げ伸びる道行はその裏である。途中で別れた穴山梅雪(武田信玄の実弟)は、落ち武者狩りにあって落命した。このあたりの人間模様はむやみに面白く、いつ見ても何度読んでも他愛なく夢中になる。演出や演技が少々ヘボでも紛れてしまう。が・・・
しかしですね、考証はきちんとありたいのだ。
安土城の饗応の場面で、信長が家康を「おぬし」呼ばわりし、家康が信長を「上様」と呼ぶ。口頭での呼び方を記録した資料もあるまいから、想像によって再現するしかないのだが、そういう時こそ歴史の理解や解釈が問われるわけで。
「おぬし」のぞんざいさはともかく、「上様」はおかしい。これは臣下が主君に対して用いる呼称だから、秀吉や勝家が信長を「上様」と呼ぶのは当然だが、家康は臣下ではない。政治的な影響力にかなりの格差があるとはいえ、曲がりなりにも対等の同盟者である。「上様」はあり得ない。
徳川は織田の東の備えとしてつらい役に耐えながら、あくまで独立の一家を主張し、そこに存在を賭けていた。そこは信長も重々承知で、武田攻めの慰労とその後の家康による歓待への答礼として安土で最高級にもてなし、その差配にしくじった光秀を面罵叱責した(一説には森蘭丸によって鉄扇で打たせた)ことが、本能寺の伏線にあったという。
「家康殿」に「信長様」あるいは「右府様」ぐらいのところで、「上様」はヘンなのだ。
ついでに言うなら、この手のドラマは大概「家康=狸親爺」説に囚われて、家康の描き方がいびつになっている。最悪は『天地人』だった。
忍耐と老獪は幼年期に人質生活を強いられた家康の身上だが、その全てではない。成人後の家康は、西上する今川の部将として先鋒をつとめたのを皮切りに、桶狭間の瓦解後は織田の忠実な同盟者として難戦の連続、信長が尾張の弱兵を工夫で強くしたのと対照的に、頑健精強な三河衆を率いて愚直に戦い続けた。そして強かった。
姉川では浅井勢を圧倒する傍ら、朝倉に崩されようとする織田軍の急を救った。三方原では戦国最強の武田勢に敢えて挑んで完敗したが、後で戦場を検分した信玄が「三河勢の遺骸に浜松へ頭を向けたものがない」と舌を巻いた。本能寺の変後は、日の出の勢いの秀吉と小牧・長久手に戦い、戦闘に勝って政略に負けた。
地味だが屈強の三河衆は、領国経営においても一種不思議なまとまりを示したらしい。
「「三河岡崎衆」という、この酷薄な乱世のなかではめずらしいほどに強固な主従関係、というよりもはや共同の情緒をもつ集団」
「この小集団の性格が、のちに徳川家の性格になり、その家が運のめぐりで天下をとり、三百年間日本国を支配したため、日本人そのものの後天的性格にさまざまな影響をのこすはめになった」云々、
いずれも司馬遼太郎『覇王の家』が評するところである。
同書からもう一か所、
「家康は二十年ちかい歳月のあいだ、武田の大勢力に圧迫され続け、ときに滅亡の危機に瀕しながらもついに屈しなかったという履歴をもっている。さらに三方ケ原の戦いにあっては、移動中の武田軍に対し、百パーセント負けるという計算をもちながら、しかも挑戦し、惨敗した。この履歴は、家康という男の世間に対する印象を、一層重厚にした。秀吉が、二十四か国の覇者でありながら、わずか五か国のぬしである家康に対して一度も恫しの手を用いず、ひたすら懐柔につとめたのは、家康のそういう履歴を知りぬいていたからであった。」(新潮文庫 P.307-8)
せめてこれぐらいは読んでから、脚本書いてほしいかな。
悪役が薄っぺらいと、主人公がバカに見えるからね。