「たちばな」という医者がいる。
立花?橘?どっちだろう。
彼の主たる「現場」は、「あかつきクリニック」という。
「たちばな」は、かつて右肩に大きな怪我を負ったことがあって、それ以来彼にひとつの幻が住みついている。
フクロウが一羽、ふと気づくと「たちばな」の右の肩に乗っている。
時に重く、時に痛い。
しばしば口うるさく、かと思えば黙り込み、常に何やかやと考えては口にする。
この小さな化鳥と共に「たちばな」は「現場」にいる。
・・・ということにさせていただいて
2013年6月14日(金)
ドカン(土管)のOさんから、『がん哲学外来の話』を紹介される。
豊かな内容で、なまなかな精神医学書よりよほどタメになる。
Mさんは、今のつらさをこらえるのに、しばしば水野源三の詩を読むという。
水野源三が誰だか、恥ずかしながらMさんに教わるまで知らなかった。
星野富弘とよく似た境遇の人と思われる。
wounded healer は、いつでもどこにでもいる。
セレブのマダムと括られても文句の言えないMさんと、これら wouded healers の対照は、不思議と言えば不思議でほとんど滑稽の域。どんなとりあわせも可能なのだ。
T青年は図書館司書講習に興味を示すが、インターネットで検索してもF大学が出ないという。そんなこともないはずだが、事実ならちょっとした都市伝説候補かな。
10年越しの苦境から脱出しつつあるNさんが、「心配をかけると思うと」母の前で泣けないという。
お母さんに診察室へ入ってもらって、このことを伝えてみる。
「バカねぇ」と一言。
一歩前進。
*****
初めは「現場から」と題してみようかと思った。
しかし、現場とは何の現場かというと、何だろう?
いわゆる診察室の中だけに現場があるのではない、というのはもちろんのことで。
サリヴァンが Psychiatric Interview 『精神医学的面接』をものすにあたって、その対象に含めたあらゆることと、ちょうど重なる現場だと言っておいたらどうだろうか。
そうか、サリヴァンの原著購読会を「塾」でやってもよいのだ。
サリヴァンは、中井先生とその一門による翻訳シリーズが「みすず」から出ているが、これはいわば「超訳」でしばしば原著からは過激に飛躍している。
サリヴァンをベースにした、中井(ら)の著作と言った方が良いようなものだ。
素晴らしすぎて首をかしげる、翻訳の難しさである。
*****
Gさんのこと。
ねっちりした、独特の個性を漂わす女性。
この人は、周辺視野の視力が恐ろしく良い。
たとえばゼミの際、横に座っている僕の一挙手一投足に、きわめて迅速かつ正確に反応する。目の端で見られていると思うと少々落ち着かないほどで、正対して視線を合わせながら話している時のほうがはるかにリラックスできる。こういう人に、他所でも出会っているはずだが、誰だったかというと思い出せない。
ある日のディスカッションの中で、Gさん自ら生い立ちの一半を語った。九州の出身で、父親が「粗暴かつ癇癪持ちで、いつもその顔色をうかがっていた」という。周辺視野が敏感になるのも道理か。
しかし彼女に兄弟姉妹があったとして、他の面々が皆、同じであるかどうかはわからない。人を論ずるに生い立ちを抜きにはできず、しかも生い立ちが全てを説明するわけではない。仔細かくのごとし。
*****
6月16日(日)父の日。日本ラグビー、ウェールズに初勝利
友人Uが語ってくれた逸話。
ある人が夢を見た。
大事にしているお人形が、人に悪さをする夢。
目覚めてから気持ちが落ち着かず、この人形を捨ててしまった・・・
この話を聞かされたUは、直ちにある仮説を抱く。
夢から出発して本人に連想を語らせて、共にその糸をたぐっていき、ほどなく仮説の正しさを確認した。
それに基づく助言が、おそらくはトラブルを未然に防いだと思われる。
これ以上詳しくは書けない。
夢分析の専門家(誰だ?)にとっては新しみのない話かもしれないが、僕にはひどく印象的であった。
夢がかくもシンプルかつ鮮やかに、隠された心理/真理を示していること。
これを聞いたUが、論理的にも倫理的にも申し分のない対処をしていること。
語った本人とU(註:本人は女性、Uは男性である)の間に確かな信頼関係が成立しており、そのように最もふさわしい条件下で自由連想が進められていること。
Uが心理臨床の「専門家」ではなく、本人も職業的クライエント(?)としてUに出会っているのではないこと。
解釈のための解釈に落ちず、あくまで実践的な効用を指向し、そのように結実していること。
ついでに言うなら、僕自身は四半世紀以上も精神科臨床に携わっていながら、これほど見事な夢解きを経験した覚えがないこと。
これら全てが、この逸話と畏友Uを眩しく飾っている。
フロイトもサリヴァンも祝福することだろう。
*****
父の日の朝、ひとり者の制作部K氏よりメール。
ここ数日、胃痛で難渋していたがどうやら楽になった。
というのも昨日、インド映画「きっと、うまくいく」を見て感動したからで、あまりによかったので今日これから、もう一度見に行くのだという。
つい最近、似た話を聞いた。
パニック障害から回復中の女性だが、「図書館戦争」があまりによかったので、日を改めて再度見たというのである。
DVD隆盛の今日だが、「ツタヤで借りて繰り返し見る」のではなく、「繰り返し映画館に足を運ぶ」ファンがいるのである。K氏の胃痛は十中八九、心身症と考えられるから、二つの逸話は基本的に同一のストレス対処方略の例といえそうである。
この場合「繰り返し足を運ぶ」ことに、実は大きな意味がありそうに思う。
通信制の放送大学であっても、困難を押してゼミに出席する者ほど一般に「予後」がよい。このことも、もちろん同根の事象だ。
「身代わり観音」の治癒機転について、フレイザー『金枝篇』を援用しながら論じてみたことがあったように記憶するが、これと関連づけることができるだろうか?
最近サボってるからな・・・
「怠け者、ホッホッ!」
肩先でフクロウが囀っている。
*****
越後湯沢の出席者の中に、息子に自死された父の姿があった。
フクロウよ、教えてくれ
どんな勤勉が、この人々への声のかけ方を僕らに学ばせるのか?
ホッホッホッ・・・
立花?橘?どっちだろう。
彼の主たる「現場」は、「あかつきクリニック」という。
「たちばな」は、かつて右肩に大きな怪我を負ったことがあって、それ以来彼にひとつの幻が住みついている。
フクロウが一羽、ふと気づくと「たちばな」の右の肩に乗っている。
時に重く、時に痛い。
しばしば口うるさく、かと思えば黙り込み、常に何やかやと考えては口にする。
この小さな化鳥と共に「たちばな」は「現場」にいる。
・・・ということにさせていただいて
2013年6月14日(金)
ドカン(土管)のOさんから、『がん哲学外来の話』を紹介される。
豊かな内容で、なまなかな精神医学書よりよほどタメになる。
Mさんは、今のつらさをこらえるのに、しばしば水野源三の詩を読むという。
水野源三が誰だか、恥ずかしながらMさんに教わるまで知らなかった。
星野富弘とよく似た境遇の人と思われる。
wounded healer は、いつでもどこにでもいる。
セレブのマダムと括られても文句の言えないMさんと、これら wouded healers の対照は、不思議と言えば不思議でほとんど滑稽の域。どんなとりあわせも可能なのだ。
T青年は図書館司書講習に興味を示すが、インターネットで検索してもF大学が出ないという。そんなこともないはずだが、事実ならちょっとした都市伝説候補かな。
10年越しの苦境から脱出しつつあるNさんが、「心配をかけると思うと」母の前で泣けないという。
お母さんに診察室へ入ってもらって、このことを伝えてみる。
「バカねぇ」と一言。
一歩前進。
*****
初めは「現場から」と題してみようかと思った。
しかし、現場とは何の現場かというと、何だろう?
いわゆる診察室の中だけに現場があるのではない、というのはもちろんのことで。
サリヴァンが Psychiatric Interview 『精神医学的面接』をものすにあたって、その対象に含めたあらゆることと、ちょうど重なる現場だと言っておいたらどうだろうか。
そうか、サリヴァンの原著購読会を「塾」でやってもよいのだ。
サリヴァンは、中井先生とその一門による翻訳シリーズが「みすず」から出ているが、これはいわば「超訳」でしばしば原著からは過激に飛躍している。
サリヴァンをベースにした、中井(ら)の著作と言った方が良いようなものだ。
素晴らしすぎて首をかしげる、翻訳の難しさである。
*****
Gさんのこと。
ねっちりした、独特の個性を漂わす女性。
この人は、周辺視野の視力が恐ろしく良い。
たとえばゼミの際、横に座っている僕の一挙手一投足に、きわめて迅速かつ正確に反応する。目の端で見られていると思うと少々落ち着かないほどで、正対して視線を合わせながら話している時のほうがはるかにリラックスできる。こういう人に、他所でも出会っているはずだが、誰だったかというと思い出せない。
ある日のディスカッションの中で、Gさん自ら生い立ちの一半を語った。九州の出身で、父親が「粗暴かつ癇癪持ちで、いつもその顔色をうかがっていた」という。周辺視野が敏感になるのも道理か。
しかし彼女に兄弟姉妹があったとして、他の面々が皆、同じであるかどうかはわからない。人を論ずるに生い立ちを抜きにはできず、しかも生い立ちが全てを説明するわけではない。仔細かくのごとし。
*****
6月16日(日)父の日。日本ラグビー、ウェールズに初勝利
友人Uが語ってくれた逸話。
ある人が夢を見た。
大事にしているお人形が、人に悪さをする夢。
目覚めてから気持ちが落ち着かず、この人形を捨ててしまった・・・
この話を聞かされたUは、直ちにある仮説を抱く。
夢から出発して本人に連想を語らせて、共にその糸をたぐっていき、ほどなく仮説の正しさを確認した。
それに基づく助言が、おそらくはトラブルを未然に防いだと思われる。
これ以上詳しくは書けない。
夢分析の専門家(誰だ?)にとっては新しみのない話かもしれないが、僕にはひどく印象的であった。
夢がかくもシンプルかつ鮮やかに、隠された心理/真理を示していること。
これを聞いたUが、論理的にも倫理的にも申し分のない対処をしていること。
語った本人とU(註:本人は女性、Uは男性である)の間に確かな信頼関係が成立しており、そのように最もふさわしい条件下で自由連想が進められていること。
Uが心理臨床の「専門家」ではなく、本人も職業的クライエント(?)としてUに出会っているのではないこと。
解釈のための解釈に落ちず、あくまで実践的な効用を指向し、そのように結実していること。
ついでに言うなら、僕自身は四半世紀以上も精神科臨床に携わっていながら、これほど見事な夢解きを経験した覚えがないこと。
これら全てが、この逸話と畏友Uを眩しく飾っている。
フロイトもサリヴァンも祝福することだろう。
*****
父の日の朝、ひとり者の制作部K氏よりメール。
ここ数日、胃痛で難渋していたがどうやら楽になった。
というのも昨日、インド映画「きっと、うまくいく」を見て感動したからで、あまりによかったので今日これから、もう一度見に行くのだという。
つい最近、似た話を聞いた。
パニック障害から回復中の女性だが、「図書館戦争」があまりによかったので、日を改めて再度見たというのである。
DVD隆盛の今日だが、「ツタヤで借りて繰り返し見る」のではなく、「繰り返し映画館に足を運ぶ」ファンがいるのである。K氏の胃痛は十中八九、心身症と考えられるから、二つの逸話は基本的に同一のストレス対処方略の例といえそうである。
この場合「繰り返し足を運ぶ」ことに、実は大きな意味がありそうに思う。
通信制の放送大学であっても、困難を押してゼミに出席する者ほど一般に「予後」がよい。このことも、もちろん同根の事象だ。
「身代わり観音」の治癒機転について、フレイザー『金枝篇』を援用しながら論じてみたことがあったように記憶するが、これと関連づけることができるだろうか?
最近サボってるからな・・・
「怠け者、ホッホッ!」
肩先でフクロウが囀っている。
*****
越後湯沢の出席者の中に、息子に自死された父の姿があった。
フクロウよ、教えてくれ
どんな勤勉が、この人々への声のかけ方を僕らに学ばせるのか?
ホッホッホッ・・・