散日拾遺

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沖縄補遺 3 ~ 首里城公園にて

2014-05-25 12:02:35 | 日記
2014年5月25日(日)

 やっと首里城の話。

 モノレールから見た城の美しさ、大海に挨拶を送るかのような優雅な佇まいは既に書いた。
 12日(月)に半休とってつきあってくれた教え子のNさんと、2時間ばかり散策したのである。

 ひとつの大きな収穫が、散策前にレストセンターの一画で見た映像資料。15分かそこらのものだが、琉球の歴史を要領よくまとめ、非常にわかりやすい。
 帰京後に聞けば、放送大学のO先生も少し前に同じ資料を見て同じように感心し、そして後で記すのとほぼ同じ考えを御自身のうちに確認なさったとのこと。

 資料は特に奇を衒ったものではなく、基本は琉球王朝の歴史を事実に即してたどるだけのものである。
 大きなところを点描していけば・・・

【為朝伝説】
 琉球王朝の始祖・舜天は、実は鎮西八郎為朝であるとする伝説がある。為朝は強弓を操る無双のツワモノで、保元の乱の際に戦闘では無敵だったが所属する院方が敗れ、兄・義朝に下った。父為義ら大多数が斬られる中、為朝だけは武勇を惜しまれ、肘の筋を切って(肘の関節を外してとも)伊豆に流された。そこでおとなしくしているはずはなく、傷が癒えるとともに暴れ出して伊豆と伊豆七島を制圧したが、最後は討手に追い詰められ、本邦初の切腹を遂げたとされる。
 並外れた英雄ゆえ、伊豆から琉球へ落ち延びたとの伝説が生まれたのだろうが、「義経・チンギスハン説」と同じく願望投影型の夢物語であろう。貴種流離譚の一型でもある。この種の心理は実に普遍的で、日本人ばかりが別して「ありがたがり」というわけではない。ローマ建国の祖は、木馬戦争でギリシア連合軍に滅ぼされたトロイア王家の遺臣だとする『アエネイス』などもある。鄭成功は『国性爺合戦』に謳われ、これはまだしも史実を踏まえている。為朝・琉球王説は曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだが、史実とするには無理がある。
 ところが、琉球ではこれが正史のうちに扱われたとあるのが意味深長なところで(Wiki 情報だから要確認だが)、当然ながら日琉同祖論との関連で語られ、1922(大正11)念には為朝上陸の碑なるものが建てられた(!)。その設立に尽力したのが、東郷平八郎だというのも考えさせられる。

【第一・第二尚氏王統】
 それはさておき、映像資料が12世紀末から語り始めているのは、上記の舜天を意識するからだろう。ただ、この時期には統一政権といえるものがなく、地方豪族の勢力争いが続いた末、1429年、尚巴志王(しょう・はしおう)の三山統一(北山・中山・南山に分かれていた沖縄本島の統一)によって第一尚氏王朝が成立する。
 この王朝の実権はまだ弱くて地方首長(按司)の対立による内乱が絶えず、まもなく瓦解。1462年に重臣の金丸が前王の薨去に伴って王位につき、第二尚氏王朝の開祖となる。実質的な王位の簒奪と言えそうだが、後漢を乗っ取った曹操が国号を「晋」と改めたのとは違って、金丸こと尚円王は体裁を何も変えずにただ自分がそこに収まった。なので形の上では同じ「尚」王朝であり、これが明治まで続く。高橋尚子の名前が沖縄と縁が深いと言ったのはこのことで、琉球王朝は最初から最後まで皆「尚」を名乗ったことになる。

 金丸が尚姓をそのまま踏襲した理由 ~ ひとつではなかったかもしれないが少なくともその大きなもの ~ が面白い。
 琉球は1392年の久米三十六姓(閩人三十六姓)渡来に見られるとおり中国との往来が盛んであり、尚氏王統が成立すると同時に明の冊封体制に組み込まれた。琉球側の王統交代を明らかにすれば、宗主である明の朝廷にこれを正式に報告し、新王統の正統性を立証してあらためて冊封を受けねばならない。どうやら金丸はこの煩を嫌ったらしいのである。同姓を用いることで従来の王統との連続性を装い、王の交代に伴う通常手続きで済ませたというわけだ。
 中華思想に基づく朝貢関係はたぶんに象徴的なもので、本末のケジメが保たれる限り中国歴代王朝の「東夷」に対する態度は至って鷹揚なものであった。(今の中国とは大違いだ。)金丸こと尚円王のこのあたりの身の処し方は、今日の我々が役所の手続きの煩を避けようとあれこれ工夫するのに似て、少々ユーモラスである。

【対中関係と島津侵攻】
 上の経緯からもわかる通り、400年以上にわたる第一・第二尚氏王統の全体を通して、琉球にとっての外交の正面は常に中国(明・清)であった。王の交代に際して冊封使を迎える儀式はそれは盛大なもので、首里城の広い中庭やこれをとりまく建造物は、半年にも及ぶという冊封使節団接待の舞台として設計されていた。
 もうひとつ注意したいのは、中国への朝貢を軸とする当時の国際関係の中で、琉球は日本や李氏朝鮮と同等並列の立場にあるということだ。ただし足利幕府がこれに甘んじて実利を取ったのに対し、織田・豊臣以降の日本人は意識において中国を宗主国とは認めなくなっていた。朝貢関係の枠をいったん破るなら琉球をアプリオリに「対等並列」とみなす理由はなく、とりわけ実力による秩序再編成を経験したばかりの日本の地方勢力にとって、琉球は「草刈り場」以外の何物でもなかった。
 1609年、薩摩の島津氏は3000名の兵でまず奄美大島(当時は琉球の領土)、ついで沖縄本島に侵攻。琉球側は4000名の兵士を集めて対抗したが、野戦の戦闘力には開きがあったであろう、しかも精強で鳴る島津勢に圧倒され、一か月かそこらで首里城開城に至る。以来、琉球王国は薩摩藩の「付庸国」とされて薩摩藩への貢納を義務づけられたうえ、江戸上りで江戸幕府にも使節を派遣することを強いられた。いっぽうでは明、ついで清への朝貢も続いたから、薩摩藩と清への両属を強いられたことになる。
 島津氏は琉球侵攻にあたって、徳川幕府の許可を得ている。つまり幕府もまた琉球を潜在的な領土とみなしたことになる。ついでながらその250年後、ペリー一行が浦賀の後で沖縄にも来航し、1854年には琉米修好条約を締結した。この時ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には攻撃・占領する許可をフィルモア大統領から与えられていたというから、黒い笑いを禁じ得ない。島津もペリーも琉球を侵略の対象とみなし、それぞれの上位権限者に「許可」を得ていた点でまさしく同じ穴のムジナである。自分のものでないものは、他人に与えることなどできないというのが、健康人の普通の判断であるけれど。

***

 どんどん話が長くなるので、何とかまとめたい。
 琉球は冊封体制という国際秩序の中では日本や朝鮮と対等な立場にあったもので、その外交の正面は常に中国を向いていた。それを、江戸幕府の後ろ盾をもつ島津が横合いから軍事介入し、暴力的に属国にした。以上、要約。
 島津の後継者が明治政府である。廃藩置県に際して清国との冊封関係を断ち、排他的に日本に属するよう琉球王に迫った。しかし琉球側が従わなかったため、1879年に警官や兵を含む600名を派遣し、威圧しつつ廃藩置県を通達した。県令の赴任に伴い、琉球王統は廃絶された。この一連の事件を「琉球処分」と呼ぶ。「処分」である。

 念のために書いておくが、だから冊封体制が良かったとか、「沖縄はそもそも中国領である」という中国の右翼の主張が正しいとかいうのではない。
 島津侵攻から琉球処分まで、琉球人自身の判断や選択が尊重されたことは一度もなかった。それは単なる時代の制約だろうか。「沖縄返還」においても同じではなかったか。それを問うのだ。
 沖縄という領土がアメリカから日本に返還されるという構図の中で、沖縄は常に客体としてモノのようにやりとりされてきた。大げさに言えば、琉球の人々の主体性が適切かつ十分に配慮されたことが、歴史上ただの一度もなかったとすら見える。それが日本人として恥ずかしく情けないのである。
 廃藩置県後の琉球人は、良き日本人/沖縄県人たらんとして健気なほどの努力と従順を示したが、それは第二次大戦末期のあの地獄の体験によって皮肉な報いを受けた。沖縄県民の頭越しに「返還」された現在も、基地の重圧を日本国民全体の利益のために忍んでいる。沖縄出身だからというのでいじめられた、差別されたという話は聞いても、出身ゆえに厚遇された話は寡聞にして知らない。

 「沖縄県民かく戦えり、県民に対して後世特別のご高配を賜らんことを」
 対戦末期に自決した田中実海軍中将の遺言である。
 どこに高配があるか、どこに感謝が、ねぎらいがあるか。  

沖縄補遺 2 ~ G先生の「オアシス」/八重山の大将と闘牛と野球

2014-05-25 09:39:42 | 日記
2014年5月23日(金)

 お許しをいただいたので尊名を記す。
 G先生は、宜保(ぎぼ)先生である。お名前が出自を表している。沖縄以外ではよほど珍しいのではあるまいか。

 宜保先生の御専門は「地すべり」である。
 地すべりは防災の立派な一分野で、日本地すべり学会というものもある。1963年創立、2000名近い会員を擁する立派な学会で、2002年には「地すべりに関する国際学会 International Consortium on Landslides」に加盟した。

 岩手学習センター長の斎藤先生が火山噴火予知に心血を注いでいらしたことを思い出す。災害には当然、地域の特性が現れる。盛岡周辺で噴火対策が急務であったように、沖縄では降雨と関連した地すべりを常時警戒せねばならない。
 「火山」と「地すべり」では接点がなさそうだが、「地震」というキーワードを間に置くと、やおら距離が近くなる。
 ある種の地震(というか、日本で恐れられている地震の多くのもの)はプレートの「地すべり」として理解されるというのである。火山活動に付随する地鳴りや地震とはカラクリもケタも違うのではあるが、各種の災害をそれぞれ別個に解釈するよりは、ヒトを取り巻く大きな海山 ~ 自然の有機体 ~ の変調として統合理解するほうが、実りは豊かであろうと想像される。

 「地すべり」を専門となさったには、きっと愛郷の念が働いていることだろうが、豊見城市字豊見城のお屋敷のガレージと庭を拝見して、容易ならぬ念の深さに驚いた。階上はおそらく沖縄の伝統的な家屋を活かしておられるのだろうが、ガレージ部分はコンクリートでシンプルかつ機能的にまとめ、見事なのは庭の眺めである。小ぶりなテニスコートが一面取れる芝生の向こうが果樹園で、そこに沖縄ならではの果樹や野菜が伸び伸びと植わっている。広々と晴れやかな眺めだが、真価はそれこそ目には見えない、地下にある。
 芝を養う表層の保水を確保しつつ、豪雨の際には大量の水が溢れることなく下水道にはけていくよう、地下の構造に工夫を凝らしたのが先生の御自慢である。それは想像するしかないのだが、庭を望むガレージの書斎が美しくかつ機能的であるのを見れば、地下の様子も同じであることと頷かれる。机上のありさまはその人間の頭の中身の投影だと、いみじくも言ってのけた人がいた。
 
 これもお許しをいただいて写真を載せるのだが、整然と書籍の積み分けられた机上は、撮影のために片づけたわけではなくて初めからそうなのである。お招きくださったのは行きがかりで、来客を予定したわけではないから、いつもこうなのだ。すごいなあ、考えられない。
 並んだ書籍のタイトルが嬉しくも多彩である。映画のチラシ、ウォーキングによる抑うつ改善法、英仏比較文学論に関する対談本、それに触発されたらしいカミユの『ペスト』にオースティン『高慢と偏見』。
 それらに混じって、イスラム建築の写真集が目に止まった。
 「イスラムの建築は「水」がテーマなんです。」
 「なるほど、しかし・・・」
 宜保先生はおそろしく頭の回転が速く、質問をたちどころに把握して最後まで言わせない。
 「ええ、イスラム世界はそもそも乾燥地帯で水がありません。だから水は、それ自体ぜいたくな装飾です。乏しい水をどう節約しつつ活用するかが工夫され、水の管理運用術が高度に発達しました。沖縄は水がありすぎて困りますが、余剰の水をどう誘導するかと考えれば、技術的には大いに通じるところがあります。」

 郷里の庭のことを思った。門前にきれいな小川が流れており、往時はそこから20mほどの地下水路を経て、中庭の池に水を引いていた。ところがこの水路が詰まるか崩落するかしたらしく、もう30年以上も枯れ池になっている。自然の水路を庭に引き込むという発想が魅力的で、何とかこの回流を復活したいというのが念願だった。宜保先生なら念願を転がす間に、たちどころに実行なさるだろう。
 先生は御自宅にオアシスをもつ。水豊かな沖縄の、精神のオアシスである。

 

 車を呼んで飲みにいきましょう、とお誘いくださったが、タクシー会社の電話が3社いずれも応答しない。雨の土曜日なので皆が車を呼び、出払っているらしい。表通りまで歩いて出て流しを拾った。
 途中で雨越しに異臭が鼻をつく。
 「養豚をする人があるんです」と宜保先生。
 苦情もあるが、「自分が先からここに住んで、長年養豚をやってきたのだから」と譲らないらしい。
 心中共感するところがある。先住者の権利というのものが、もっと尊重されてよい。
 東京の家の真ん前が区立中学校、300m北に区立小学校があり、いずれも運動会の時期には近隣にひどく気を使っている。何でだろう?
 学校は半世紀以上前からそこにあり、文句を言う住民はそれを知った上で後から越してきたのだ。だいいち、地域に子どもの声が響くのは幸せなことだ。
 郷里では農家が受難である。先祖代々そこで暮らしてきた彼らに、後から建った団地の住人がうるさいの臭いのと文句を言う。理屈も何もありはしない。米も野菜も食べるなと言ってやりたい。
 そうはいったが養豚場の臭気はなかなかキツいものがあり、ひっきりなしでは大変だろう。鶴見川沿い、市ヶ尾から下流 1.5km地点にも養豚場があり、夏の夕方など差しこむ西陽を浴びて、ぶーちゃん達がほんのりピンクに染まっていたっけ。あそこも昨年あたり、ついに取り壊されていた。
 川沿いはかつて農村の外れだったのだろうが、今では周囲を住宅が埋めて養豚場のほうが孤立していた。後継者も得がたいことと想像する。

 八重山料理の店のカウンターで、八重山出身の大将の真ん前に陣取り、見回せばその縁を思わせる品々が大将を取り巻いている。
 中でも嬉しいのは闘牛の写真、二頭がガッキと角をあわせ、勢子二人とともに見事な力の集中を示す一枚、こういう写真は断然白黒が良い。闘牛は愛媛・宇和島の名物でもあるが、それこそ後継者不足で存続が危うくなっている。スペインの「闘牛」とは違い、牛と人が一体となって力と技を競う生命讃歌、何とか生き延びてほしいものだ。
 牛の相撲に技があるのかって?大ありだ、若いばかりの力頼みでは横綱は張れない。熟練と忍耐、一瞬の勝負勘、人の相撲と変わらない。そういえば大将、何だか少し牛に似ている。きっと大好きなんだね。
 中央のカラー写真では、巨牛の傍らに若い女性が立って綱を握っている。
 「誰だかわかりますか?」
 宜保先生に言われてよく見れば、何とマラソンの高橋尚子である。いつ頃の撮影だろう、Qちゃんと渾名されたあの笑顔を久々に見た。
 そういえば高橋尚子、「尚」の字が沖縄に似つかわしいこと、翌日になって気がついた。だから来沖したわけでもないのだろうけれど。

 カウンターの上に、硬式野球のボールが一つ。書かれた文字はだいぶ滲んでよく読めない。
 どこの/誰のサインボールかと問えば、もちろん答えは、
 「八重山商工」

 沖縄県立八重山商工は石垣市内にあり、日本で最も南に位置する高校だという。
 沖縄の高校野球のレベルがこれだけ挙がっても、離島のハンデは未だに大きい。その八重山商工が活躍したのは2006年。もちろん春夏ともに初出場だった。
 春一回戦、先発大嶺が毎回の17奪三振の好投で、高岡商(富山)に5-2で勝ち、全国の離島勢で甲子園初勝利をあげる。二回戦はこの大会優勝の横浜に6-7で惜敗。
 夏一回戦、延長10回の激戦の末、千葉経大付に9-6の逆転勝利。二回戦は松代高校(長野)に5-3で勝ったが、三回戦は強豪の智辯和歌山に3-8で敗れた。
 智辯和歌山は準々決勝で帝京相手に13-12の壮絶な競り合いを演じた、あのチームである。準決勝では田中将大を擁する駒大苫小牧に敗れ、勝った駒苫は決勝で斉藤佑樹の早実と延長再試合を演じた。
 高校野球の話題豊富な年、愛媛代表は今治西で、四番宇高を中心によく打ったが、八重山と同じく三回戦で日大山形に延長戦の末、敗れている。

 今年夏の甲子園の話題になると、沖縄の人々の目がすっと細くなる。
 「ひょっとしたら」というのである。
 大本命は沖縄尚学、僕らの年代では「広島の安仁屋(あにや)の母校」というのが訴える。
 このセンバツでは準々決勝で豊川高校(愛知)に2-6で負けたが、これはマサカの敗戦だった。
 「ひょっとしたら」
 後は言わない、下の句は夏のお楽しみである。

Closed eyes see more/親の肥満が子に報い?

2014-05-25 06:47:37 | 日記
2014年5月25日(日)


 Closed eyes see more.

 タイの反軍政派デモ、立ち並ぶ兵士の前で小柄な男性が掲げるメッセージである。
 『星の王子様』の狐の箴言を思い出す。
 L`essentiel est invisible pour les eaux. (大事なものは目に見えない。)

 警官の警備下でするデモだって、相当怖いものだ。
 いわんや兵士の目前で、ほかならぬ軍政を批判するデモとなれば。

 タイ人は一般に温和であるけれど、この件では気丈な一面が先日来見えている。
 黒装束で「軍政は民主政治の葬り」であると訴えたり。

 ナチの進駐地域、フィンランドだったかな、ある日市民がいっせいに小さな花を胸に飾った。
 普通のきれいな花、ただそれだけで、何の合図でもなかったから、処罰のしようもない。
 しかし見る側はさぞや不気味に感じたことだろう。

 秘匿された情報網が見事に働いており、そこから発信される情報に対して市民が高い忠誠心 loyalty をもって従うことを、花のようにみずみずしく示している。一見無害、ユーモラスにすら見えて、実はきわめて強い示威効果をもつ行為である。それを承知で行うのだから、やはり相当怖かったはずだ。
 これほど洗練されたネットワークを断とうとするなら、その集団を根絶やしにするしかない。実際、「根絶やし」を実行しかねない相手だった。

 Closed eyes see more.

 メッセージを英語で書いたのは、メディアを通じて世界が見ることを期待するからだろう。
 それが暴力の抑止に繋がることを、心から願う。

***

 9万人以上の小児を対象とするノルウェーの疫学調査で、親(特に父親!)の肥満が児の自閉症・アスペルガー障害のリスクファクターであることが報告されたと、インターネット情報。
 Surén P, et al., "Parental obesity and risk of autism spectrum disorder" Pediatrics, 04/21/2014

 面白いことが、いろいろとあるものだ。
 どういうことなのか、これだけではわからないけれど。

 息子らの発達障害対策には遅すぎるが、何しろダイエットですね。
 

策功茂實 勒碑刻銘 ~ 千字文 066/人に知らえず

2014-05-23 08:25:01 | 日記
2014年5月23日(金)

○ 策功茂實 勒碑刻銘

 策は「書き記す」こと、茂は「さかりにす(る)」と読み下して、ほめたたえる意。
 勒は「彫りつける」ことだそうだ。

 手柄を書き記し、その実態をほめたたえ/
 石碑を彫って銘文を刻み込む

 というところか。
 昨日の末尾に書いたように、鷗外こと森林太郎(シンリンタロウと読まないで・・・)は、墓碑においてまさにこのことを拒んだのだ。

 白珠は人に知らえず
 知らずともよし
 知らずとも
 吾し知れらば
 知らずともよし
(万葉集 巻6 1018 元興寺僧)

 神し知られば、と言っておく。
 むろん神は知悉している。

バラ科の名前/漱石と博士号

2014-05-22 11:20:51 | 日記
2014年5月22日(木)

 久々にいただいたコメントは、どちら様からでしょう?

> サクラがバラ科だと知った時の戸惑いふたたび。
> 素人の感覚では説明されてもピンときませぬ・・・

 ほんとにそうですね。
 
 分類表を眺めてみると、目に美しいばかりでなく、食べて美味しい果物の大多数がバラ科だったりする。
 リンゴもナシもモモもスモモもイチゴもビワも・・・
 バラ科の一人天下に雄々しく待ったをかけるのが、郷土の誇るミカンの一族。いわゆる柑橘類は、ムクロジ目ミカン科なんだそうですが、ムクロジってどんなんだろう?
 バラ系とミカン系と、どちらか一方だけを地上に残せといわれたら、皆さんどちらを選びますか?バラが優勢なんでしょうね、きっと。僕はミカン、絶対譲らないけど、ナシ・モモ・イチゴと並べられると迷うなあ。

 元になった記事は昨年8月5日に書いた(らしい)もので、当人がすっかり忘れた頃にこうしてコメントをいただけるのもブログの楽しみかもしれない。
(みけた?さんけた?/ネコ目イヌ科? http://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/f682e3164a7cca9561a659f7c59004de)
 あの折の感興(というか憤慨)のポイントは、「食肉目」「偶蹄目」「奇蹄目」など立派に名が体を表し、学問的にも実用的にも価値の高かった従来の名称を、わざわざ改悪して手柄顔しているどこかのお偉いさんたちのフシギな精神構造にあった。
 ところでコメントをもらって気づいたんだが、これらはいずれも動物ですね。植物はもともと「バラ目」式だったので、不思議さは unknown さんのおっしゃる通りだけれど近年の改悪ではないのである。植物の方が、群を代表する形態的特徴を一言にまとめるのが難しいということだろうか。

***

 お上(女将ではない)に対する文句といえば、今朝の『こころ』に面白い注記がある。

 持病の胃病で入院中の漱石の留守宅に、文部省から「博士号を授与するから、出頭されたい」という手紙が来た。漱石はカチンときた。受けるかどうか、まず聞くのが筋ではないか。もともと学問を国が序列化するような博士号の制度を、苦々しく思っていた。
 漱石は文部省局長に断りの手紙を書く。「小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております」
 文部省は、発令したのだから今さら、辞退できない、と学位を送ってきた。漱石は「小生の意思に逆らって、お受けをする義務を有せざることをここに言明致します」と強く拒否、結局双方の主張の言い合いで終わった。

 今日とは「博士号」の意義も重みも違うことを念頭に置きつつ、賛否の分かれるところだろう。
 少し似た話がわが家にある。父方の祖父は多年にわたる中国戦線従軍の功に対し、戦後ささやかな叙勲にあずかった。勲何等だかの瑞宝章で、この種の叙勲者は全国に数多くあるに相違ない。祖父はそれらの人々同様、確かに苦労した。国家の招集に応じて戦地へ赴き、帰ってきたのは小十年の後である。出征時に赤ん坊だった三男は親の顔を知らず、復員してきた父が厳格なのに辟易して、「あの恐いオジサンはいつまでいるの?」と訊いたという。かくも長き不在と困難に対し、なにがしかの慰労があったとて罰(ばち)は当たらないところだ。
 ところが祖父はこれを受け取りに行かなかった。そのまま60歳そこそこで他界した後、役所からあらためて連絡があり、仕方なく次男(僕からいえば上の叔父)が受け取ってきたものが郷里に残っている。
 祖父の存念はよく分からない。自分らの苦労がそんなもので報われるかという反発か、戦没した仲間や同胞に対する遠慮か、それとも単なる無関心か、農地改革をめぐる思いも関わっていたかも知れないが、判断材料が乏しすぎて何とも言えない。ただ、お上の下しおかれるものならば、おしいただいて有り難しとする心性と無縁であったことだけは、諸般の事情から推察できる。

 漱石の上記の話を聞く度に、僕の中で祖父の像がこれに重なってくる。
 そして「ただの夏目なにがしとして」という言葉からは、墓碑に一切の顕彰を排して「森 林太郎」とだけ彫らせた鷗外の心事も、また連想されるのである。