少し戻って2014年9月21日(日)の「著者に聞きたい本のツボ」が、早見和真『イノセントデイズ』を取り上げた。
裁判という公的過程で認定された「事実」とメディアによって塗り上げられた「真相」が、いかに真実と異なっているか。この図式自体は特に目新しくはない。ただ、「予断偏見は何も生み出さない」「そのように確信してひとつの作品を書き上げながら、気がつけば性懲りもなく予断偏見に陥ろうとする自分がある」、そのように語る著者の率直さに惹かれ、同じ週の木曜日に珍しくもハードカバーの小説本を買ってきてしまった。
文章をもって語らせ、文章を通じて読み取るのが執筆・読書の約束事だから、著者のコメントを聞いてから読むのは本当は禁じ手だ。この場合もラジオインタビューで受けた(プラスの)印象がちょっかいを出し、無心に読むことは端から期待できない。読後感は、もちろんすっきりしない。すっきりするよう書かれた作品ではなく、むしろ正反対である。それやこれやで文学作品を楽しんだとは言えないが、はっきりしているのはインタビューでも語られた著者の思いへの、全面的な共感である。
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ごく少数の人間、特に幼年期を共有した二人の男友達が、それぞれの立場からそれぞれのやり方で主人公を助けようとし、あるいは少なくとも関わろうとする。その助け方・関わり方のスタンスが微妙だがはっきりと違い、目ざす目標も異なるのが印象的だ。「本のツボ」で著者は、「二人のうちの一人、どちらとは言いませんが、その一人に自分自身のイヤな面を託しました」と語った。当然、いま一方に「かくありたい」自分を託したのである。この描き分けが、嫌みな表現だけれど非常に示唆的で教訓的だ。そう、教訓的なのだ。
プロローグで裁判傍聴マニアとして登場した女性が、エピローグで女性刑務官として戻ってくる。酒場でテレビニュースを見る酷似した場面が「開始」と「終了」の合図を告げるなど、全体の構造がしっかりしていて、読み手としてはありがたい。多くの関係者が丁寧に個別化されているのも良い。僕自身がとりわけ忘れられないのは、アパートのオーナーである草部という男性だ。なぜ忘れられないか、ネタばらしになるから具体的には書かない。
抽象的に書いておこう。罪ということを考えさせられるのだ。聖書の告げるような意味での「罪」である。僕らの主観的な善意と悪意から、それは最も遠いところにある。
力作だ。