散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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読書メモ: イノセント・デイズ

2014-10-13 10:12:32 | 日記

 少し戻って2014年9月21日(日)の「著者に聞きたい本のツボ」が、早見和真『イノセントデイズ』を取り上げた。

 裁判という公的過程で認定された「事実」とメディアによって塗り上げられた「真相」が、いかに真実と異なっているか。この図式自体は特に目新しくはない。ただ、「予断偏見は何も生み出さない」「そのように確信してひとつの作品を書き上げながら、気がつけば性懲りもなく予断偏見に陥ろうとする自分がある」、そのように語る著者の率直さに惹かれ、同じ週の木曜日に珍しくもハードカバーの小説本を買ってきてしまった。

 文章をもって語らせ、文章を通じて読み取るのが執筆・読書の約束事だから、著者のコメントを聞いてから読むのは本当は禁じ手だ。この場合もラジオインタビューで受けた(プラスの)印象がちょっかいを出し、無心に読むことは端から期待できない。読後感は、もちろんすっきりしない。すっきりするよう書かれた作品ではなく、むしろ正反対である。それやこれやで文学作品を楽しんだとは言えないが、はっきりしているのはインタビューでも語られた著者の思いへの、全面的な共感である。

***

 ごく少数の人間、特に幼年期を共有した二人の男友達が、それぞれの立場からそれぞれのやり方で主人公を助けようとし、あるいは少なくとも関わろうとする。その助け方・関わり方のスタンスが微妙だがはっきりと違い、目ざす目標も異なるのが印象的だ。「本のツボ」で著者は、「二人のうちの一人、どちらとは言いませんが、その一人に自分自身のイヤな面を託しました」と語った。当然、いま一方に「かくありたい」自分を託したのである。この描き分けが、嫌みな表現だけれど非常に示唆的で教訓的だ。そう、教訓的なのだ。

 プロローグで裁判傍聴マニアとして登場した女性が、エピローグで女性刑務官として戻ってくる。酒場でテレビニュースを見る酷似した場面が「開始」と「終了」の合図を告げるなど、全体の構造がしっかりしていて、読み手としてはありがたい。多くの関係者が丁寧に個別化されているのも良い。僕自身がとりわけ忘れられないのは、アパートのオーナーである草部という男性だ。なぜ忘れられないか、ネタばらしになるから具体的には書かない。

 抽象的に書いておこう。罪ということを考えさせられるのだ。聖書の告げるような意味での「罪」である。僕らの主観的な善意と悪意から、それは最も遠いところにある。

 力作だ。


体は語る

2014-10-12 06:45:30 | 日記

2014年10月10日(金)の診療雑記から

 何となく面接を繰り返すうちに、いつの間にか10年ものつきあいになることが珍しくない。Rさんはそんな人の一人で詳しくは書かないが、心理的なストレスが身体症状に形を変えて訴えられることのきわめて顕著な女性だった。女性らしくよくしゃべるけれど、この人の言葉は無駄に饒舌でほとんど意味がをなしていない。(知的には高い人で、個々の文は整然とした日本語である。念のため。)しかし彼女の身体症状は、その時の「ココロ」をつぶさに語ってきた。

 初診の頃からよく訴えたテーマに、「腸が腫れる」ということがあった。「お腹が張る」という人は多いが、「腸が腫れる」という表現はRさんだけである。それも、キンキンに腫れて痛いのだという。対症的に薬も使うが、内科では型どおり「身体的には問題はない」と言われる。「あなたはとても雄弁な体をもっていますね」などと指摘してみることもあり、すると本人も苦笑して「本当に」と同意するのだが、そこから先へはなかなか進まなかった。

 そのRさんにここ数週間、小さな変化が見えている。これまで口にできなかったある種のこと ~ 他人の悪口に類すること ~ を、これまでと違った率直さで言葉に出し始めているのである。「意地悪ができる人でないと、親切もできないものだ」という意味の箴言がラ・ロシュフコオにあったようなのを思い浮かべながら、存分に吐き散らすようそそのかしているが、ふと気づいた。

 「最近、『腸が腫れる』ことが減ってませんか?」

 「ええ、はい。」

 拍子抜けするようにあっけらかんと答えるのが、いかにもと思われる。最近、腹痛はほとんどないのだそうだ。

***

 「物言わぬは腹ふくるるわざ」は、徒然草19段に見える。ただし文脈は以下の通り。

 言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つ(やりすつ)べきものなれば、人の見るべきにもあらず。

 さしずめこのブログなんか、まさに鼓腸の予防のための「あぢきなきすさび」で、破り捨てて人に見せないのが心得ということになる。でも、そういう兼好先生の筆まかせが星霜に耐えて700年を読み継がれてるんだから、まあいいよね。


亡びるね

2014-10-11 22:33:29 | 日記

2014年10月11日(土)

 「しかしこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。

 すると、彼の男は、すましたもので、

 「亡びるね」といった。

***

 三四郎、106年ぶりの再連載、広田先生の有名な「亡びるね」は第8回に出てきた。

 その文脈を僕は忘れていた。浜松駅でホームを見ると、4,5人の西洋人が行ったり来たりしている。そのうちの一組は夫婦者らしく、殊に女性が真っ白な装いで非常に美しい。それを眺めての会話である。

 男が言う。

 「どうも西洋人は美しいですね」

 三四郎は別段の答えも出ないので、ただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は、

 「お互いは憐れだなあ」と言い出した。

 「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが ー あなたは東京が初めてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々がこしらえたものじゃない」といってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後、こんな人間に出逢うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。

 以上に続いて、「しかしこれからは日本も段々発展するでしょう」「亡びるね」と続くのである。そしてその後は ー 

 熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲(な)ぐられる。悪くすると国賊取扱にされる。三四郎は頭の中のどこの隅にもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると、自分の年齢の若いのに乗じて、他(ひと)を愚弄するのではなかろうかとも考えた。

(中略)

 「熊本より東京は広い、東京より日本は広い、日本より・・・」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。

 「日本より頭の中の方が広いでしょう」といった。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」

 この言葉を聞いたとき、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいたときの自分は非常に卑怯であったと悟った。

***

 前半の字面を単純に読むと、西洋人は美しく優れている、日本人は顔から建物から庭園からことごとく劣悪である、だから日露戦争に勝ったぐらいで何が変わるわけでもなく、あとは亡びるばかりだ、そのように追えてしまう。そんな自虐的な言説なら、今さら聞くにも読むにも値しない。

 真意は後半に示される。日本より国際社会のほうが広い、欧米の方が広い、などとは言わない、頭の中が広いというのである。頭の中を向上させないで、目に見える成果ばかりを追っていったら、贔屓の引き倒しをして亡びるばかりだというのだ。

 贔屓の引き倒しで高転びに転んだこと、不気味なほどの的確な予見である。その後、僕らの頭の中は広くなったかどうか。

 精神医学という名の窓から見る限り、なかなかそうは思われない。

***

 ついでながら、「建物を見ても、庭園を見ても、顔相応」と言うときの建物や庭園は、どこのどんな建物を想定してのことだろう?法隆寺の五重塔や竜安寺の石庭・・・ではないのだろうね、やはり。

 『坊ちゃん』は伊予人を思いっきりバカにしているのに、それをありがたがっている地元の気が知れないなどと、賢しげに笑う手合いがインテリ(死語?)の中にも時々ある。あの作品の中で辛辣に風刺されている真の対象が何者(たち)なのか、ほんとうに分かりませんか?


その資格、使えるか?

2014-10-11 21:29:13 | 日記

2014年10月11日(土)

 いわゆる資格がどれほど役に立つものかどうか、しばしば疑問ではある。米倉涼子扮するドクターXは、「医師免許がなくてもできる仕事は一切いたしません」と公言し、たいへんカッコいい。確かに諸資格中、最強のもののひとつは医師免許かもしれない。

 僕はこれでも「庭園管理士」という資格を持っていて、生涯に一度ぐらい使ってみたいと思っているが、そのチャンスがあるかどうか。

 ところで最近、愉快な話を聞いた。

 知人の息子さん、大手会社に正規社員として勤めるれっきとしたサラリーマンだが、ちょっとした資格マニアでいろいろもってるらしい。日本国内では飽き足らず、休暇を利用してラオスに資格を取りに行ったんだそうだ。

 さて、何の資格でしょう?

 正解は「象つかい」だって!すごいなあ・・・

 「どう使うのよ、そんなの?」

 「案外わかんないよ、地球温暖化で日本にも象が住むようになるかもしれない。更新世にはナウマン象がいたんだから。」

 「あれは氷河期じゃないの、イイカゲンなんだから。」

 「え~っと、ラオスではどう使ってるんだろう。タクシー代わりとかかな?」

 「タクシーじゃないでしょ、トラックとかクレーンの代わりよ、きっと。」

 「でもさ、面白そうだよね、どんなことで役に立つかわかんない。」

 相手はフフンと鼻で笑った。

 「一泊二日の講習で取れる資格なんて、象が鼻で吹き飛ばしちゃうわよ。馬だって乗り手が素人だとバカにするっていうでしょ?象って頭いいんだから、なめられるに決まってるわ。象になめられたら怖いゾウ~」

 確かに、そうかもしれない。でもこの件、日本から参加した物好きがどのぐらいいるか分からないが、ともかくラオスという国を訪れ、象に遊んでもらいながら数日を過ごしたのである。ラオス側から見た集客効果の費用便益比は決して悪くないのではないか。この種の「観光資格」を各国とも大いに活用したらいい。フィンランドはトナカイぞりのドライバー資格、オーストラリアならカンガルーとボクシングを戦った証明書(命がけかも)、メキシコはサボテン栽培士・・・

 「もっとウィットの効いたの、ないの?」

 すみませんね、でもどれにしたって、戦士の証明のためにシリアに行くよりよっぽどマシだ。


タバコの履歴

2014-10-11 19:17:53 | 日記

少しもどって2014年10月3日(金)の診療雑記:

 Pさんが週明けから入院するという。先日見つかった肺ガンの治療が始まるのである。発見が遅れたわけではない、むしろ早めに見つかったのだが、部位が少々奥まって厄介であるために、検査も治療も手間どっている。もともと不安症状で通院している人で、「神経質で恐がり」と自称する通りの性格だから心配したが、ガンの診断治療については驚くほど泰然としている。

 人が何に対して小心で、何に対して豪胆かは、簡単には言えないことだ。大きな価値に対する小心翼々たるこだわりが、世俗に対しては剛胆として現れるということもある。イエスの弟子達などは、さしずめその好例に違いない。(そういえば、漁師転じて使徒となったペトロ、その妻は聖書に名前すら出てこないが、夫と共に伝道旅行に出たことがパウロ書簡から知れると先日教わった。どんなおかみさんだったのかな・・・)

  Pさんは元来ヘビースモーカーで、今はやめたけれど過去の履歴が肺気腫という形で身に記されている。喫煙が成人男性として当然の嗜みだった時代の人だけに、不摂生を責めるのも気の毒なところがある。

「ほな、行ってきますわ」

「気をっけて、行ってらっしゃい」

 言ってから、メードカフェの件を思い出して苦笑した。

 ***

  タバコで肺ガンとなると、必ず思い出される人がある。やはり不安が主訴の女性で、牛丼屋の正職員として奮闘していた。社内の技能コンテストに入賞し、賞状を見せてくれたことがあったが、両脚の配置からシャモジのもち方、肉の盛り方まで、詳細を極めたチェックポイントに驚いた。Qさんというその人は、ほぼ全てのポイントで要求を完璧に満たしていた。そういう人柄だったのだ。

 成人した娘があるとは思えない、笑顔が若い女性だったが、家庭の事情で不安を刺激されることが止まず、抗不安葉に加えてタバコが手放せなかった。そしてある日の診察で、肺ガンが見つかって入院治療が始まることを語った。

「退院したら、元気で帰ってきます」と声を励まして笑ったが、それきり会うことはなかった。

 娘さんが訪ねてきたのは、確か1~2年後のことである。Qさんよりも一回り大柄で、こちらはおちついた感じの女性だったが、笑う口許によく似たえくぼができた。「母がお世活になりました」と懇ろに礼をのベ、実は自分も母親ほどではないが、時に不安症状が起きるのだと話した。話を聞いては少量の薬を処方することを何度か繰り返し、何か月かすると姿を現さなくなった。

 タバコは吸わないと言った。確か美容師だったと思う。