散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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日曜日 ~ 山、小カブ、悪習、草刈りと銀杏、などなど

2014-10-27 06:43:58 | 日記

2014年10月26日(日)

 いつもながら東京よりは日の出が遅く、6時過ぎはまだ薄暗い。経度の効果に加え、東側に標高1000m弱の高縄山を控えていることによる。前にも書いたが30歳前後に別府で過ごした一年間は、早朝に海から陽が昇り、夕は早々に山に陽が落ちる逆転状態を経験した。別府は西側に1,300mを超える鶴見岳があり、しかも急峻なので夜が早く来る。

 そうそう、最近会ったT君とO君が、申し合わせたように山歩きに精を出している。T君は「百名山」の何割かを踏破し、近く御嶽山行きを計画していた。O君は行き先は少ないが、富士だの屋久島だの大どころを押さえている。日本は山国だから、山を楽しまない法はないのだが、二人ともとりたてて山好きではなかったはずだ。あるいは残り時間を計算しているかなと、ちらと考えた。富士や屋久島を知らずに死ぬわけにはいかないと僕も思う。膝の調子が気になるが、両君も膝の問題は抱えているらしいから、工夫のしようはあるのだろう。

 

 朝の食卓に小さなカブが並んでいて、これがめっぽう旨い。シャキシャキと歯ごたえ良く、酢と塩胡椒で箸が止まらない。一汁一菜などと言うが、美味しい旬の一菜があれば十分な御馳走である。これが前の畑から何気なくあがってくるのが、田舎の豊かさである。

 

 B教会はこのところ御無沙汰していて、午前中は土間の机まわりで過ごす。新しい習慣を新たに加えるのは難しいが、身に染みついた悪習(悪臭?)を払拭する難しさは、レベルが一桁あるいは二桁上である。アルコール依存症などはそのことを教えてくれているが、それが教訓になるとすれば断酒会の効果も教訓になるわけだ。べてるの手法(「三度の飯よりミーティング」)は断酒会に学んだものだと感じたが、先週は埼玉の癌患者の集いがやはり同じ「無批判・語りっぱなしのミーティング」を実践しているのをテレビで見た。金曜日の診療の際にKさんに話してみたら先刻承知で、「あれはとても良いのだけれど、いろんな背景の人が出席していて、私などはつい聞き手になってしまうからダメです」と苦笑した。Kさんは別の友人と、一対一の交わりの中で支えられたという。

 場の力、絆の力は否みがたいが、その表現型は多様なのだ。中には現実の対人関係を好まない人もあるが、その場合は内面化された架空の「場」や「絆」に支えられているような気がする。自分自身は、どこに属するのだろう?どうしたら悪習/悪臭を払拭できるだろう?

 

 午後、M先生にCS通信の原稿を送っておいて柿田の草刈りに行く。夏と違って楽ちん。すぐ下の畑でタマルの奥さんが手入れをしているので帰り際に挨拶したら、きれいなナスを5~6本にカボチャを1個もたせてくれた。いつも銀杏(ギンナン)を分けているので、その返礼だろうと父が笑う。内でギンナンがなるのは当家だけだそうだ。門前に一対&一本、僕らの結婚記念に植えてくれた銀杏(イチョウ)である。東京の街路樹のように直線的に天を衝くのでなく、幹が分かれながら5mほどの手頃な高さに育っている。登りやすくギンナンが取りやすい、木肌が明るくて美しい、はなはだ気立て(木立て?)の良い樹々である。夏の緑陰など、すばらしく快適だ。

 

 さういふものに、私はなりたい・・・