散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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ハンナ・ゴールドバーク?

2017-10-24 00:52:33 | 日記

2017年10月21日(土)

 スティグマ付与、言い換えれば悪しきレッテル貼りは珍しくもない現象で、類的思考の必然的な随伴作用ともいえる。類的思考、つまり対象を個別的に見たてるかわりに、それが属する(と思われる)類型の特性で判断することには、思考経済学的な合理性がある。留学生のイブラヒム氏が名前の示唆するとおりイスラム教徒だと知れば、歓迎会で酒やトンカツを出す訳にはいかないと直ちに分かる。これなどは類的思考のプラスの側面だが、マイナスの側面もたっぷりあることはイスラム国問題が十二分に教えてくれた。イスラム=排他的・戦闘的=テロリストという「公式」のおかげで、穏和で協調的な何億人ものイスラム教徒がはかりしれない迷惑を被った。

 ・・・というような話を準備しながら、ふと思い出したアメリカの心理実験のこと。未知の女性の顔写真を見せ、どんな印象を受けるか被験者に語ってもらう。その際、女性にアングロサクソン風の名前をつけるのと、ユダヤ人風の名前をつけるのとで、印象が有意に変わるというのである。ユダヤ人=教育熱心=上昇志向=倹約家といった「レッテル」が、どれほど認知に影響を与えるかを実証したもので、スティグマ形成プロセスに関する基礎研究ともいえる。

 異文化集団間の軋轢も強いかわりに、こういう辛辣にして啓発的な研究も出てくるのがアメリカである。もっとも、同じ実験を日本で実施することは論理的には簡単で、女性の名前に和名をつけたのと半島系ないし大陸系の民族名をつけたのとで比較すれば良い。そんな研究がおおらかに語られる風景を本朝で見たいものである。

 この件を説明するのに使わせてもらった写真と「名前」を御紹介。

  メリル・ストリープ   ハンナ・ゴールドバーグ

 (https://ja.wikipedia.org/wiki/xxxx)

 映画好きは欺けない、もちろん左が彼女の本名(芸名?)。右が「ユダヤ人風の名前」の例としてひねり出してみたものである。「・・・バーグ」は特にドイツ経由のユダヤ系アメリカ人に多い苗字で、それを踏まえた小ネタもある。旧約聖書に出てくる女性名はクリスチャンとユダヤ人に共用可能だが、とりわけハンナはユダヤ人が好んで使っていた記憶がある。

 メリル・ストリープ自身はヨーロッパの複数の民族を先祖にもつオランダ系アメリカ人とWikiにあるが、『マディソン郡の橋』に出演した頃に「イタリア系の主人公の役をユダヤ系の女優が演じるなど超ミスキャスト」という評を読んだことがあり、真偽や当否はともかく、そういう観点があるのかと驚いた。

 僕自身の記憶は、『クレイマー・クレイマー』(1979)に遡る。離婚した元夫婦が息子の親権を裁判で争う物語で、原題の"Kramer vs Kramer" (クレイマー対クレイマー)はアメリカの法廷での案件の呼び方に依っており、当時のアメリカでこうした現実が社会問題化していたことが窺われる。元夫役がダスティン・ホフマンで元妻役がメリル・ストリープ、アカデミー主演男優賞・助演女優賞のほか作品賞・監督賞・脚色賞などが与えられた。当時の目蒲線目黒駅ホームにポスターが貼られ、それで東急文化会館まで見に行ったのだったな。

 あれから40年近く、アメリカの現実ははるか先へ進み、こちらは足元不如意でなかなか進めずにいる・・・ように思われる。

Ω


スティグマについて話したこと

2017-10-22 11:55:17 | 日記

2017年10月21日(土)

 スティグマについて話す機会あり、主催者の動員力で80人余りも集まった。スティグマという言葉を「今回初めて聞いた」参加者がほぼ半数を占める。確かに耳慣れない言葉で、この種のキーコンセプトがカタカナ語なのも癪なところだが、スティグマに関しては提唱者のゴフマン(Erving Goffman, カナダ/アメリカ 1922-82)自身、ことさら耳慣れない言葉を担ぎ出すことで注目を喚起しようとしたようだから、妙ちきりんなカタカナ語であるのが正解かもしれない。「社会的誤訳」という言葉があるのかどうか、schizophrenia を「精神分裂病」と訳したのは逐語変換としては正しくても、社会的機能から見れば大変な誤訳であるというのが持論だが、スティグマの場合は逆にカタカナ語のままに置いておくのが、社会的機能の面から正解かもしれない。

 スティグマ stigma はスティグ stig に由来するギリシア語で、スティグは「奴隷や受刑者の身体に印を刻むための先の尖った棒」を意味する。刻まれた刻印がスティグマで、これをゴフマンは個人や集団に付与される負のレッテルの意味で用いた。偏見や差別の背景にあってそれらを生み出す「レッテル貼り」と考えたらよく、僕にはそれが聖書の告げる「罪」の現代的な表現と感じられる。罪を免れる人間はなく、スティグマ付与を行わずに生きられる人間はない。

 面白いことに、スティグマという概念にはひとつだけ「肯定的な」用法がある。いわゆる「聖痕」がそれで、十字架上のキリストに完全に(あるいは過剰に)同一化した信徒の脇腹や手足に、槍の刺し傷や釘のうがった穴が現れることを指す。ナザレのイエスがユダヤ人共同体から瀆神者という最大のスティグマを冠せられ、呪いともに屠られたことと考え合わせる時、こうした現象をスティグマと呼ぶことの意味が深く実感される。

 

 そんな次第だから、キリスト教的な集まりでスティグマについて語りあうことを大いに楽しみに出かけたのだが、少々あてが外れた。講演後の熱心な質問者らはスティグマのスの字にも触れることなく、日頃の自分の疑問やら主張やらを蕩々と論じていく。いろいろなところで話をするが、こんなことはあまり記憶になくて驚いた。こちらの伝え方がよほど悪かったか、しかし、通じた手応えを感じさせてくれる人も確かにあったと思う。

 スティグマ問題は、間違いなく今後の日本社会の試金石になる。実際にはずっと前から試金石としてそこにあったのに、その存在すら明確に認識されてこなかった。すべて、これから。

 

Ω


氷雨の金曜日の夢と幻

2017-10-21 07:19:37 | 日記

2017年10月20日(金)

 明け方にとんでもなく長大な夢を見た。通常、目覚めた後で語れるような筋のある夢は見ないのに、今日は細部に論理的な無理があるものの、まるで小説みたいな筋のある展開。そのまま書いたら芥川賞を狙える作品に・・・なるわけないか。ああ疲れた。

 起きれば新聞一面に「天皇陛下退位 19年3月末」と大見出し。すぐ思い出したのは漱石の『こころ』である。主人公の父親は明治帝崩御を知って「おれも・・」と呟き、自身の命数をそこに重ねていく。いっぽうでは、乃木将軍夫妻の殉死の報が「先生」に自決の覚悟を固めさせる。明治の終わりにあたって、社会全体がひとつの生命体のように連関動揺する風景が、名作の背景になっている。

 明治と平成ではもとより事情が大いに違うが、案外違わないこともあるかと思われる。何がどう違い違わないか、いずれつぶさに見ることになるだろう。かの有名な『共同幻想論』を僕は読んでいないが、そのタイトルから連想するのはこういったことであり、摂食障害などの健康問題がメディアを介して伝播する現象である。

 雨の通勤はいつも鬱陶しく、とりわけある人々の傘の扱いに辟易する。濡れた足元に構わず構内を走る姿も多く、人に当たったり派手に自分が転んだりするのは、昭和も平成も大差ない。

 着いた先では「日本の秋はどこへ行っちゃったんでしょう」という嘆きを、訪れる面々が例外なく口にした。実際、先週初めは夏が戻ってきたようだったのに、昨日今日はほとんど冬に入っている。北米大陸の中心部に近いセントルイスがこんな具合で、彼の地の春秋は日本に劣らず美しいが、それぞれほんの数日しか続かなかった。気象が大陸化しているということがあるだろうか。平成の初めには日本に秋があったが、平成の終わりには消滅していた、そんなふうに回顧されるのかもしれない。

 もう一つ、平成初年には携帯電話というものが人々の手に存在しなかった。平成の終わりには人の顔を認識して留守電メッセージを伝えるロボットが出現している。

Ω


場の力ここにも

2017-10-20 07:27:08 | 日記

2017年10月17日(火)

 卒業論文の提出日を2週間後に控え、7人全員ゼミに終結、院生さん2人の参加もあって熱のこもった一日を過ごした。今日日の常識として、顔の写った写真をそうそう露出できないのが残念。代わりにこちら、昼休み風景。

 

 手ぶらで来たのは僕だけで、皆めいめい持ち寄りのおやつを、てんでに回して分け合っている。これぞ場の力の顕現。

 こちらは院生Tさん持参の学会発表ポスター、不織布(ふしょくふ)製の逸品である。写真では切れているが、ゼミ生の中で最長身の二人が両側から捧げ持っている。素材以上に充実の内容は、学会終了後にあらためて紹介の予定。

Ω

 

 

 


本日代休にて、診断の意味や拒薬の心理について思い巡らすこと

2017-10-17 08:10:36 | 日記

2017年10月16日(月)

 『本日休診』は井伏鱒二の名作、こちらは土日の代休。氷雨を幸い終日ひきこもって、今日が締め切りの原稿を書いたり、放送大学科目の録画を見たりしている。

***

 『信徒の友』の連載はリレー形式、あるいは皆でキャッチボール形式とで言っておこうか、奇数月は当事者さんが発信し、偶数月はこれを受けてコメントを返す、その反復で連載を編んでいる。受けるボールに身を張って生きる人々の質量がこもり、投げ返す作業に気づきもあれば感動もあって充実このうえないが、大変なのは執筆者よりも編集者である。

 奇数月の記事の中で自身の闘病を振り返る人の、「病気と診断された時はホッとした」という述懐があった。「怠け病」ではないと保証してもらって自分でも安堵したという意味である。裏を返せば、得体の知れない不調・変調が本人の甘えや言い訳の産物ではないのかと、周りからもほのめかされ自分でも煩悶した、長い時間がそこに窺われる。今このタイミングで思い出したのは、土日の授業の質疑で全く同じ趣旨の発言があったからだ。医師から伝えられた病名はそれぞれ違った別のもので、それだけにこの心理の一般的であることがよく知れた。

 医師にとって診断が重要であるのは、それが適切な治療を開始するための理論的根拠となるからである。患者にとっても同じには違いないが、患者の場合それが全てではない。得体の知れない不調・変調に説明を与え、戦うべき相手の正体を示してくれるのが診断のありがたさで、相手が見えてこそ闘うことも可能になる。遡って「怠けではなく、病気である」ことを裏書きしてくれるのも診断の功徳であり、一見して病気とは見えにくい精神疾患の場合、この効果は思いのほか大きく深いはずである。

 このあたりの機微 ~ 医療提供者の心理とは根本的に違う受療側の思いを、医師らの教育の中でもう少しとりあげる必要があるだろう。『信徒の友』は日本基督教団の刊行物だが、この連載の奇数月号などさしづめ多くの人々に読んでもらいたいものである。

***

 今回の面接授業は「実践」を一つのテーマにし、「こんな時どうするか」という具体的なお題をいくつか用意して受講生に投げかけてみた。予想以上の食いつきだったり、逆に皆が考え込んで静まりかえったり、対面の醍醐味をこちらも満喫した。

 「医者からもらった薬を『実は飲んでいない』『飲みたくない』と患者さんに打ち明けられたらどうするか」

 これなどは外れのないテーマで、盛り上がること必至である。切り口が多く発展性に富み、これだけで一回の面接授業を組むこともできるかもしれない。熱のこもったやりとりの中で、ふとある場面を思い出してこちらが笑い出してしまった。

 高校生のお嬢さんが、親の勧めで受診してきた。話を聞いてみるとどうやら軽いパニック発作があるらしく、受験を控えて勉強に集中できなくなっているようである。若い人にむやみに薬を勧めたくはないが、ここはさっさと発作を抑えるが上策と説明し、本人も納得したかに思われた。ところが2週間後に来た彼女は、不調が続いているのに処方された薬を飲まなかったという。

 「飲みたくなかったの?何でかな?」

 「自分の気分が、薬で変わっちゃうかと思うと・・・」

 素直に語ってくれた。もっともな不安というべきで、その種の不安をもたないほうが実は心配なのである。ただし、当然予測されることだから初診の時によく扱ったつもりだったが、いざ飲むとなるとあらためて気が差すのも理解できるところ。再度話し合ううちに、お嬢さん、ふと頬を赤くした。

 「あと、ですね」

 「?」

 「薬飲んで発作が治まったら、『勉強しろ』って親に言われるのもイヤだったりして」

 あ~言っちゃった、みたいな表情を作って、きれいな前歯むきだしに笑っている。若い人と話すのは、これだから面白いのである。

 

Ω