散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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4年前の落第答案/伯父と叔父/集団的条件反射

2019-07-20 21:02:56 | 日記
2019年7月20日(土)
・コメントが届いた記事: 実は未解決?モンティ・ホール問題
 https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/8d0f0f8d092298469708c0bbb5e486bf
・コメントを書いた人: ベイズ
・コメント:
 この問題では「友人が、必ず、ハズレを開ける」が必須条件です。この条件を明確にしないと解答は違ってきます。また、モンティホール問題は条件付き確率の問題ではありません。
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 ははあ、そうだったんですか、ハナから分かってなかったな、
 ・・・とか言ってみたものの、実は何のことだかまるで思い出せない。こんな記事を自分が書いたんですか? 2014年10月30日(木)?? う~ん、証拠がそこにあるもんなぁ・・・
 ともかく、いたって基本的な思い違いを的確に指摘してくださってる模様。ベイズさん(!)ありがとうございました。気もちにゆとりができたらきっと見直してみます。
 
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 伯父(母)さんと叔父(母)さん? そうなんですよ。
 ラフにまとめれば、伯父さんは父母の兄、または父母の姉の夫、叔父さんは父母の弟、または父母の妹の夫。伯母/叔母もこれに同じ。亡くなったT伯父は母の兄で、お参りするK叔父は母の弟である。
 めんどくさい、どうせ儒教的大家族制度の遺物でしょって、確かにそういう側面はあるが、決してくだらなくはないのね、この手のことは。カルテに家族情報を記載したり、「患者さんのオジさんから照会があった」と書きとめたりするとき、これを区別するだけで案外役に立つことがある。どちらか分からない時は「おじ/オジ」とカナ書きしておけば、その点は不詳だと分かる。情報のちょっとした経済性と言ってもよい。
 ただ、この種の約束事は関係者一同が知識理解を共有していないと機能せず、かえって混乱のもとになるばかりである。社会一般には、とてもじゃないが既に機能しなくなっているね、あ~あ・・・

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 面白さもピークを過ぎた感じのチコちゃんだが、「風鈴の涼しさ」の件では勉強させてもらった。「集団的条件反射」の話である。
 条件反射については、パブロフの実験を最初に教わって以来、個体レベルでばかり考えていた。しかし条件反射は集団レベルでも成立する ~ 同種の条件反射が大多数の個体で同様に成立しているという意味で ~ のだし、実はそのことこそ社会形成上、比類なく重要なのである。文化の伝達とは、実際にはこの種の条件反射の共有である場合が、とてもとても多いはずなのだ。
 あらゆる社会集団をこの観点から分析することもできそうだし、どちらがどちらを条件づけするかということは、支配・被支配を考えるキーにもなりそうである。研究している人がきっとあるのだろう。
 昔、心理学の教科書に秀逸な一コマ漫画が載っていた。レバーを引くと餌が出ることをネズミに学習させたと研究者は思っているが、当のネズミは仲間に向かって「俺がレバーを引いたら餌を出すように、アホな研究者を条件づけてやった」と威張ってるのである。この含蓄はかなり深い。アメリカの学生の落書きがオリジナルの由だが、さもありなん、あらゆる場面であらゆる刺激に対してジョークを案出するよう、彼らは深く条件づけられている。
 で、明日は参議院選挙の投票日。わが国では「政治」と聞いたとたん「無意味」「愚劣」「ヤクザな仕事」「自分にはカンケイナイ」と考える条件反射のパターンが広く共有されちゃってるので、あの手この手で訴えてもなかなか投票率は上がらない理屈である。
 それで得する人は誰?
 
Ω
 

 


あえて些事を記すこと

2019-07-19 08:50:19 | 日記

2019年7月18日(木)

 よりによってこの日この時に。

 今週は『君の名は』を録画で見る機会があり、隕石 ~ 彗星の片割れの衝突で村が消滅するという宇宙的なカタストロフまでも自在にしなやかに取り込むアニメの力に、一驚も二驚も喫したところだった。内に向かっても外に向かっても、言葉というものの発しようがない。祈りにもならない祈りめいたものを不明瞭につぶやくのが精一杯である。

 こんな時だからこそ。
 警察 ~ 京都府警捜査一課は逮捕状請求前に容疑者名を公表し、これについて「事態の重大性を鑑みた」と説明した由。これは説明になっていないように僕には思われる。容疑者が逃亡し、身柄確保のため広く協力が必要といった「緊急性」が理由になるならさておき、事態が重大であるならばなおのこと、容疑者名の公表には慎重なはずのものではないか。
 「早く正体を知りたい」という一般の空気に忖度したというほうが分かりやすく、そうだとしたら警察という最強の権力装置の心得としては、逆ではないかと思う。容疑者のプロファイルのごくわずかしか知られていない段階で、「何らかの精神疾患があった」云々という情報が断片的に伝えられることには、さらに嫌な予感が伴う。

 警察といえば、ここ数日気になることが伝えられており、それがこの大事件に皆の注意が行く中で立ち消えになるならば憂わしい。

 7月15日、札幌:
 「安倍首相はJR札幌駅前で7月15日午後4時40分ごろ、選挙カーに登壇。自民党公認候補の応援演説を始めた直後、道路を隔てて約20メートル離れた位置にいた聴衆の男性1人が『安倍やめろ、帰れ』などと連呼し始めた。
 これに対し、警備していた制服・私服の警官5、6人が男性を取り囲み、服や体をつかんで数十メートル後方へ移動させた。また年金問題にふれた首相に対して『増税反対』と叫んだ女性1人も、警官5、6人に取り囲まれ、腕をつかまれて後方へ移動させられた。
 いずれのヤジでも、演説が中断することはなかったとされている。」
https://webronza.asahi.com/national/articles/2019071700003.html 

 7月18日、大津:
 「参院選の自民党公認候補の応援演説をしている安倍晋三首相(自民党総裁)にヤジを飛ばす男性を、警備の警察官らが会場後方で囲んで動けなくする場面があった。 」
https://www.asahi.com/articles/ASM7L661GM7LULFA03Z.html 

 国会の壮絶愚劣なヤジ合戦に辟易している国民に対して、これはまた随分と行儀の良さを強いるものだ。私的には選挙演説をヤジることが賢明とも生産的とも思わないし、ロンドン・ハイドパークのスピーカーズコーナーを思い出して憂鬱な気もちも浮かんでくるが、警察が身体的な介入を行うとなれば話は全く別である。
 精神医療の現場では、もうだいぶ前から警察が何もしてくれないことが悩みの種になっている。たとえば具合の悪い患者さんが家庭で不穏をきたし、家族は病院に連れていきたいが、とても手に負えないといった状況。こういったときに110番すると、警官はすぐ駆けつけてくれるがすぐまた帰ってしまう。昔のように病院へ連れていってくれはしないというのである。
 これは理由のあることで、人権侵害を避けるために身体的な介入を手控え、「民事不介入」の原則を守ることは警察の方向性として正しい。こうした事態を一般の民事紛争と同一視してよいかどうかは検討の余地があるが、警察を頼むよりも精神科救急制度を整備する方向を目ざすのが、制度設計としては本筋だし建設的でもあろう。
 ただ、こうした「民事」に関して介入を控える一方、「政治」に関して介入を強化するのでは、どうにも筋が通らない。たいせつな根本のバランスをあまりにも欠くのではないか。香港やウイグルを連想することが、決して飛躍ではないと思われる瞬間である。

***

 金曜日は診療、土曜日は博士課程指導。自分の持ち場を守りながら、心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくるほか、手向ける葉も花ももちあわせないもどかしさ。

合掌


掌を冷やす効用/75周年

2019-07-18 08:31:28 | 日記
2019年7月18日(木)

 「熱中症予防に掌を冷やすと良い、冷たいペットドリンクを持ち歩くだけでも。」
 TVで言ってるよ、と家人。試してみよう。

 「お風呂が熱いと感じたら、手首から先をお湯から出してごらん。」
 こちらは半世紀前の父の教えで、たぶん幼年学校仕込み。効果は検証済みである。

 熱放散/循環系の問題と、知覚神経の分布の問題と、単純ながらなかなか深そうな話。

***

 ストレス障害とヒステリーの関係が、ずっとモヤモヤ割り切れずにいたところ、どうやら少し霧が晴れてきた気配。そこに見える風景がまた単純ではないが、有力な媒介項が「戦争」であることは間違いない。
 これについて、たいへん良い仕事をしている人がある。綿密な実証に立った労作である。

中村江里 『戦争とトラウマ: 不可視化された日本兵の戦争神経症』 吉川弘文館(2017)

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 今日7月18日、サイパンで戦死したT伯父の命日である。75周年だから存命ならば98歳ということか。松山では今年もK叔父が宇和島から出てきて、護国神社へ足を運ぶことだろう。
 サイパン守備隊の組織的抵抗は昭和19年7月7日に終わりを遂げ、7月9日には全島が制圧されたとある。伯父の命日は戦死の公報に依るものであろうが、なぜ7月18日なのかよくわからない。母はいろいろと調べていたようで、知り得たことを端然と清書したものが遺品の中から出てきた。隠しだてなく何でも語る母が、このことについては寡黙だった。

 知りたくもあり知りたくもなき仔細かな

Ω

かもめの心

2019-07-16 05:50:06 | 日記
2019年7月16日(火)
 もう何ヶ月か前に「ふらっと」主宰者のTKさんがコピーしてくださったものを、その場で転載許可をいただきながら、ためつすがめつ鑑賞に余念なく、つい先送りになっていたものである。野暮な解説よりも、まずは現物を提示しておく。
 「ふらっと」は、がん患者の家族と遺族のためのサロンである。現に闘病中の患者家族と遺族とが席を同じくする活動のあり方に、勇気と叡智を見る。宛名の山本繁次郎氏はTKさんの曾祖父にあたる方とのこと。消印の日付、8月9日と読めるが、年は何年か。一桁の数字、昭和初期であろうか。 

   

 昔の人の信書のやりとりは、見ているだけで心に愉しみが湧く。とりわけ葉書という文化の奥深さを思うが、この一葉の魅力はそれに尽きない。差出人の釈老師が一首の歌を記している。拡大する。


 よ志あしの浮世の事は志らなみの かもめの心われは学ばん
(道中くちつさみの一つ)

 善し悪しの浮世のことはしらなみの・・・「知らない」と「白波」を掛けている。言葉の洒脱もさることことながら、「善悪は知らず」とおっしゃる高僧の心が怪しくも不可思議で。

 折からこんな下りを『今昔物語』に見つけた。
 「然(さ)れば、悪しき事と善き事とは、差別(しゃべつ)有ることなし。只同じ事也。智り無き者の、善悪異也とは弁(わきまう)る也。彼の央崛魔羅は仏の御指を切らずば、忽に道を成(じょう)ずべきに非ず。阿闍世王父を殺さずば、何でか生死を免るべき。盗人玉を盗まずば、大臣の位に昇らむや。此をもって善悪一つ也と知るべしとなむ語り伝へたるとや。」
国王、盗人のために夜光る玉を盗まれたる語(こと) 巻第五 第三

 ・・・しかし、それは結果論、ほとんど屁理屈というもので、だから善も悪も一緒だとは言えなかろう。姑息な善悪を超越する話は老荘にもあるところだが、これがいつもどうも腑に落ちない。
 豊後国東の道中にて老師ふと口ずさんだ「かもめの心」、是非とも教えを乞いたかったものである。

Ω

ケータイと結婚指環/NZ便り

2019-07-15 09:39:10 | 日記

2019年7月14日(日)

 「あなた、まだ独身?結婚してないの?」
 ゼミ室のお弁当休み、屈託なく飛んだ声に一瞬、胆(きも)が縮んだ。大丈夫、声の主は温厚な高齢女性、親しい幼女を遊ばせる時の口調・声調でニコニコお箸を使っている。
 部屋の反対側でこれも一瞬口ごもった若い影が、すぐまた朗らかな声を弾ませた。
 「はい、でももうすぐ、11月に」
 「11月?論文なんか書いてて大丈夫なの?」
 そのまま和やかな談笑が続いていく。こんなやりとり、こんな会話は何年ぶりだろう。この種の話題を口にできなくなってから、ずいぶん時が流れたような気がする。プライバシーに踏み込み踏み込まれる不快は減じた代わり、慶事を言祝ぎ合う嬉しさも期待し難くなった。
 「Qさん、よくぞ訊いてくださいました。同じことを僕らが訊いたら・・・」
 「一発アウト」
 「おめでとう」
 「おめでとう」

***

 Qさん本日好調と見え、その後も楽しそうに飛ばしている。
 「前回は帰りに副都心の駅で歩けなくなっちゃってね、『だからケータイ持ちなさいって言ってるじゃないの、すぐ行ってあげたのに』って娘に叱られてさ。だけど私きらいなのよ、絶対もたない、ケータイとか結婚指輪とか」
 「結婚指輪、ですか?」
 「ええ、ケータイも結婚指輪も、どこに行っても縛られてるみたいでしょ。わたし主人のもちものじゃないもん」
 アメリカ時代、よく似た言葉を発した中国人の女性技官がいた。こちらは「何で結婚したら夫の姓に変えなきゃならないの、私は夫の所有物 property じゃないわ」と言ってのけたのだ。この点では中韓 vs 日米欧という図式ができるのが面白い。あっぱれな中国人技官は、居並ぶすべてのアメリカ人と日本人をひとまとめに挑発してのけたのである。
 しかしまあ話は簡単ではない。その後に知り合ったある韓国人女性の嘆息。
 「子どもたちは父親つまり夫の姓を取るから、婚家の中で自分ひとりだけ、いつまで経っても他人なの。日本人のやり方が羨ましい。姓は夫に譲っても、家庭の色を私流に染めていけば、いずれ姓も私の姓になるでしょうに。私も一員になりたいのよね。」
 それぞれにそれぞれの困難があり、その双方に変化の時が近づいているようである。

***

 NZで自己研鑽に励むYさんより続報。最近経験したことをエッセイに書かれた由。同地の事情を窺い知るのと英語の読みのお稽古と、一石二鳥の転載である。

Vessel breakdown brought me…
                                                             2019 July 4th 
   Today the 7:35 ferry sailing from Stanley Bay to Auckland, which I take to get to school was cancelled due to a vessel breakdown.   I learned of this just before departure time.  My only choice was to go to Devonport to take an alternative ferry to Auckland.  To make sure of this, I asked other passengers around me and so we decided to head for Devonport.  Fortunately, one man, who was going in our direction, offered another young lady and me a ride to Devonport.  I was so happy because I was facing the prospect of a twenty-minute walk in the wind and the rain as well as a late arrival at school.
   On our way to the Devonport ferry, the man, who was the driver and another lady who came from UK ten months ago, talked about, rather complained the other two men who had left the wharf before the announcement of the cancellation.  One issue was, how they knew about it in advance, and the other was how they could walk off without telling the remaining passengers, including us.  We also learned that this was this driver’s second trip to Devonport this morning.  Actually, he had dropped off his wife there before coming to Stanley Bay since it was easier to find a park in the latter.
  What happened was this driver kindly dropped us before he looked for a car park in Devonport so that both of us could catch the 7:45 ferry.  We really wanted him to be on the same one, but he didn’t seem to be on board with us.
He had gone out of his way to help us; for me, to reach school on time !
   What a nice person he was, and I really think “This Is New Zealand I’d imagined about !!”

Ω