「アイランドストリーム」というのはうちのシーカヤックサービスの屋号で、直訳すれば「島と潮流」という意味なのだけれど、それは日本神話の冒頭部分からヒントを得ている。
まあ半分しゃれだがね。
日本神話の言うところによると、まず最初、ただの混沌とした世界の他に何もなかったところに、天から棒が差し伸べられ、ググっと力強く掻き混ぜられた。その棒を引き上げる際に、滴った塩でできた島があった。「オノゴロ島」(淡路島)という島だった。で、そこにイザ凪という男神とイザ波という女神が降り立ち、セックスし、結婚した。
2人のセックスを介して、さらに次々と島々が生み出された。四国や小豆島、壱岐対馬・・、さらに本州、九州と、日本列島を形づくるあらゆる島々が誕生したのだった。
と、このように記されている。その島々は「大八島(おおやしま)」と呼ばれ、8とは8個という意味ではなく、末広がりの無限性、多元性を意味する。実際日本列島の全部の島を合計するとなんと6852個もある。
で、ここから日本の国ができあがるまでにまつわる様々な物語が展開されるわけだげ、ぼくはこの日本神話の冒頭部分を読んで直観的に色々と考えた。このストーリーには、けっこう含蓄深い意味があるぜ、と。
古い神話というのは大方、自然と人間との交感から発生しているものが多い。日本神話の場合(古事記・日本書紀)、これが編纂されたのは奈良時代、律令国家ができるのを記念するという意味合いが強く、そこには多分に政治的な思惑が絡んでいるのだけれど、その神話的素材は縄文とか旧石器時代の、自然とダイレクトに結びついた人々の自然観、生活観から生まれている(神話に慣れてくると、「ここの部分は権力者がこのように操作しているな」とか「ここの部分はピュアな生活感情がそのまま描写されているな」とか、わかってきて面白い)。
で、その冒頭部分である「島生み」の神話に、ビビビンとインスピレーションを感じたのだった。
まずイザ波とイザ凪の結婚というのは、ぼくは、「異文化間の融合」の象徴だと解釈する。
そう捉えると、国土の誕生と日本人の誕生、つまり自然風土と人間文化両面での創世という意味で、より神話的な意義が深まる。
もともと日本はそのルーツをさかのぼれば、北方系、南方系、大陸系、海洋系と実に多種多様な出自の人々がミックスされてできた国だ。人類学によると少なく見積もっても7種類の異人種が混血した民族だという。
おそらく縄文時代にも、異人種同士の争いもあっただろう。だが、争いなど結局どんな理由であれ、あほらしく不毛なものでしかない。そいつは何も生み出さない。
一方そこを超えてお互いの持つ部分を差し出しあい、持たざる部分を補い合うという行為からは、色んな有益なものが生まれてくる。そのようにして原初の日本人の生活が成り立っていったのだろう。
異文化同士がきちんと根気よく対話し、融合してゆくことによって、さらに様々な島々(技術や発想)が生み出されていった。
イザ凪とイザ波とのセックスというのは、要するにそういうことだと思う。勝手な独自解釈だが、別にそれでよかろう。
で、それが実際の自然現象「潮流」に重ねあわされているのが興味深い(棒をかき混ぜてできた流れに掛かっている)。
実際、日本には島が多いが、島々の周辺には必ずセットであるかのように潮汐流が流れている。
だだっ広い大海原ではたいした流れはないが、狭く近接した島々の間では、ちょうどホースの口を絞った水流のように、潮汐流は顕著なものとなる。その象徴的な場所が、鳴門海峡・明石海峡・友が島水道という日本を代表する3つの速い潮汐流を生み出す「淡路島周辺海域」だ。
安泰沈滞せず、常に新しい他者と対話し、フレッシュに生成変化することによって、新しい島々(技術や発想)を生み出してゆく。その着眼点が面白い。神話時代からワープして、ポスト9.11時代のあり方として、それが理想だ。
まあ半分しゃれだがね。
日本神話の言うところによると、まず最初、ただの混沌とした世界の他に何もなかったところに、天から棒が差し伸べられ、ググっと力強く掻き混ぜられた。その棒を引き上げる際に、滴った塩でできた島があった。「オノゴロ島」(淡路島)という島だった。で、そこにイザ凪という男神とイザ波という女神が降り立ち、セックスし、結婚した。
2人のセックスを介して、さらに次々と島々が生み出された。四国や小豆島、壱岐対馬・・、さらに本州、九州と、日本列島を形づくるあらゆる島々が誕生したのだった。
と、このように記されている。その島々は「大八島(おおやしま)」と呼ばれ、8とは8個という意味ではなく、末広がりの無限性、多元性を意味する。実際日本列島の全部の島を合計するとなんと6852個もある。
で、ここから日本の国ができあがるまでにまつわる様々な物語が展開されるわけだげ、ぼくはこの日本神話の冒頭部分を読んで直観的に色々と考えた。このストーリーには、けっこう含蓄深い意味があるぜ、と。
古い神話というのは大方、自然と人間との交感から発生しているものが多い。日本神話の場合(古事記・日本書紀)、これが編纂されたのは奈良時代、律令国家ができるのを記念するという意味合いが強く、そこには多分に政治的な思惑が絡んでいるのだけれど、その神話的素材は縄文とか旧石器時代の、自然とダイレクトに結びついた人々の自然観、生活観から生まれている(神話に慣れてくると、「ここの部分は権力者がこのように操作しているな」とか「ここの部分はピュアな生活感情がそのまま描写されているな」とか、わかってきて面白い)。
で、その冒頭部分である「島生み」の神話に、ビビビンとインスピレーションを感じたのだった。
まずイザ波とイザ凪の結婚というのは、ぼくは、「異文化間の融合」の象徴だと解釈する。
そう捉えると、国土の誕生と日本人の誕生、つまり自然風土と人間文化両面での創世という意味で、より神話的な意義が深まる。
もともと日本はそのルーツをさかのぼれば、北方系、南方系、大陸系、海洋系と実に多種多様な出自の人々がミックスされてできた国だ。人類学によると少なく見積もっても7種類の異人種が混血した民族だという。
おそらく縄文時代にも、異人種同士の争いもあっただろう。だが、争いなど結局どんな理由であれ、あほらしく不毛なものでしかない。そいつは何も生み出さない。
一方そこを超えてお互いの持つ部分を差し出しあい、持たざる部分を補い合うという行為からは、色んな有益なものが生まれてくる。そのようにして原初の日本人の生活が成り立っていったのだろう。
異文化同士がきちんと根気よく対話し、融合してゆくことによって、さらに様々な島々(技術や発想)が生み出されていった。
イザ凪とイザ波とのセックスというのは、要するにそういうことだと思う。勝手な独自解釈だが、別にそれでよかろう。
で、それが実際の自然現象「潮流」に重ねあわされているのが興味深い(棒をかき混ぜてできた流れに掛かっている)。
実際、日本には島が多いが、島々の周辺には必ずセットであるかのように潮汐流が流れている。
だだっ広い大海原ではたいした流れはないが、狭く近接した島々の間では、ちょうどホースの口を絞った水流のように、潮汐流は顕著なものとなる。その象徴的な場所が、鳴門海峡・明石海峡・友が島水道という日本を代表する3つの速い潮汐流を生み出す「淡路島周辺海域」だ。
安泰沈滞せず、常に新しい他者と対話し、フレッシュに生成変化することによって、新しい島々(技術や発想)を生み出してゆく。その着眼点が面白い。神話時代からワープして、ポスト9.11時代のあり方として、それが理想だ。