白上山からのぞむ、いぶし銀の湯浅湾。
海の真ん中にある無人島が、かるも島。
先日のシーカヤック&奉納演奏ライヴの際に、
みんなでかるも島に宛てたラブレターを書きました。
鎌倉時代のアーティスティックな高僧・明恵(みょうえ)上人は、
若かりし頃この島で修業しましたが、
壮年期になってもこの島の景観の美しさが忘れられず、
まるで人間に宛てて書く手紙のように、
島に対してラブレターをしたためたというエピソードが残っています。
で、その文面は今でも残っており、それは、
明恵上人に関する著書などで読むことができるのですが、
先日ぼくらもそれにちなんで、島に対してラブレターを書きました。
それらをまとめてボトルに詰め、近日中に島に埋める予定です。
タイムカプセルとして、そのまま埋めておくか、
あるいは何年か後に取り出してみたいと思っています。
(毎年やってもいいけどね。200年後くらいの連中が読んでも面白い)
島にラヴレターを書く、というのは、一見酔狂な、
というか、キザったらしい行為のように思えますが、
明恵上人は「マジ」で書いてた、というのがミソです。
いや、マジというより、当然のこととして書いていた。
どういうことだろう?
人間はともかく、動物も「魂」を持っている、というのは動物好き、
特にペットを飼っている人はよく分かることでしょう。
虫や魚などもわかる人にはわかるでしょう。
植物にも気心がある、というのも、そういう内容の本もあるし、
そういわれて納得できる部分もある。
「一寸の虫にも五分の魂」という言葉があるように、
生命を持つものには全て、何か根底で通じる「気」
のようなものが存在すると言っても、そうおかしくは聞こえないだろう。
ならば石ころや風、島、大地にも気や心があるのかどうか?
こういう無生物にまで行くとちょっと話は変わってきますね。
普通の感覚でいくと、ないように思える。
だけど、それを「ある」と捉えるのが、日本の仏教思想のユニークな所です。
「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」と言って、
草も木も、獣も土も川も石も、森羅万象全てに仏性が宿っていて、
ことごとく成仏する、という考え方ですが、
それが日本仏教の基本的な生命観なのです。
森羅万象すべて分け隔てなく、このエコシステムの中で
有機的に脈打っているという捉え方。
それはおそらく仏教伝来以前から、つまり
旧石器~縄文時代からの日本人の自然観であり、
仏教伝来後それを「仏性」と言ったが、
以前はアメリカ・インディアンがいうところの
「グレート・スピリット」とかそういうニュアンスのものとして、
ずっと存在していたのだろうと思われます。
あえてわかりやすく図式化すると、
自然のリズムとともに生きてきた人たち特有の生命観の系譜が
何千年も連綿と続いてきて、
有史以降そのベースの上に外来の仏教思想が乗っかったという構図。
明恵上人は自然と一体化する行・瞑想を通して
そのことを実感として、深々と感じていた。
つまり日本仏教の真髄を全身で感得していた。
島に宛てたラブレターというのは、
心の内側から発せられた、ごく自然な行いだったわけです。
で、その意図のなさ、てらいのなさ、自意識の自然さがとても美しいのです。
行為そのものがアートになっているわけです。
そのことに敬意を表し、
800年後を生きるぼくたちも同じ事をしたというわけです。
またアウトドアマンとしても、実は、
こういう行為こそが安全性に繋がってくるのです。
征服、制覇系のチャレンジではなく、
自然との対話、一体化、リスペクトを抱くことによって、
気象、海況の微細な変化に気づくことにもつながってくるわけですし、
「詩情を大切にする」というのは、
ただのセンチメンタリズムではなく、状況把握という、
安全管理の根本にも繋がってくる一大事項なのです。
そしてそれが面白いわけです。
海気を読む、とかもそうだし、
おれたちはポエジーを大切にしたいからアウトドアをやり、
自然のポエジーが最も繊細、濃密に感じられる行為だから、
シーカヤッキングをメインにやっているというところがあります。
深くて、豊かなんだよな。